加藤賢一データセンター

 

日本プラネタリウム協会「Twilight」 3号(1993)

「曽根崎の星」顛末記

−文楽をプラネタリウムへ−

 

写真1.「曽根崎の星」を紹介した科学館ニュ−ス

加藤 賢一       大阪市立科学館

  1992年に制作した投影ソフト「曽根崎の星」の制作経過と見学者の反応を紹介する。この作品は、 古典芸能をとり入れたこと、プロの演者に出演してもらったこと、ロ−カル物であること、 できるだけ既存の写真や音を活用したこと、などに特徴がある。 

1.はじめに
  1992年夏の3ケ月間、大阪ローカル物の第2弾として「曽根崎の星」のタイトルで一般投影を行った。 当館では45分の投影時間のうち約30分は生解説のマニュアル投影、残りの15分ほどをオートという構成にしている。 「曽根崎の星」はオート部のソフトで、古典芸能である文楽をとり入れるという新しい試みに挑戦した。 何かの参考になればと思い、紹介する次第である。
  この投影ソフトを入れ込んだのはちょうど本会の総会を開いた時だったので、参加の方々にはご覧 いただいた。その後、観客の反応がどうだったか、何人かの方に尋ねられたので、その回答ともさせていただきたい。

 2.近松門左衛門の曽根崎心中に星が
  人形浄瑠璃=文楽の狂言の中で最も有名なものの一つが近松門左衛門の曽根崎心中である。1703年、 大阪・露天神社(俗称お初天神)の境内で起こった心中事件をもとに書き上げたと言われており、 それまで低迷していた文楽界に一大旋風を巻き起こし、これ以降、市井の話題をとりあげたこのようなジャンルが新しく生まれることになった。 世話物の誕生である。
  この物語の舞台となっているのは大阪の堂島と梅田である。天下の台所と呼ばれるほど活況を呈していたその当時、 蔵屋敷や歓楽街があったらしい。今でも市の中心部で、当科学館から歩いてほんの少しのところである。ローカル物としては申し分ない。 当館では1〜2年に1本位はローカル物をかけようという方針で、江戸時代の暦算天文学を扱った「なにわの天文昔話」を作ってきた。 そのシリーズの2つ目としてこれを位置づけたのであった。
  文楽・曽根崎心中をとりあげるにはそれなりの必然性がなければならない。実は最後の道行きの場面に北斗や天の川、 織女、牽牛などが登場するのである。それも近松が実際に夜空を見あげて描いたとしか考えられないほどリアルに表現されている。 このあたりの事情をもう少し具体的に見てみよう。  この話に登場するお初・徳兵衛にはモデルがあって、その二人は現行暦1703年5月22日に実際に心中を遂げた。旧暦では元祿16年4月7日、 上弦の月だった。二人がいよいよ最期という場面、どこからか夜明けを告げる鐘の音が聞こえてくる。「暁の七つの時が六つなりて、 これがこの世の今生の鐘の響きの聞き納め」であった。という次第で日付と時刻(午前2時半頃)が求められて(註1)、 夜空の様子やら惑星の配列やらが決まる。そこで星座早見盤をくるくるとやってみると、近松が「・・北斗はさえて影うつる、 星の妹背の天の河」と書いているように、西北の空に北斗七星がかかり、天頂付近に織女・牽牛が浮かんでいることが分る。 すでに上弦の月が沈み、惑星はいずれも見えないような配列であった(註2)から、これらの星々がよく目立っていたことだろう。 お初のいた天満屋から北にある露天神社に向かっていた二人には川面に映る北斗が見えたに違いない。北斗は妙見信仰の対象であり、 これに願いをかければ幸せが増すという星である。それを眺めながら二人は最期を迎えようとしている。そして頭上には夫婦星が光っている。 死にゆく二人の心情を夜空に投射して鮮やかに描いた情景である。それがまたちょうど実際の日付の夜空に合っているのだ。 あまりにでき過ぎている。こんな情景を空想で書けるほど星の知識がある人は滅多にいない。 近松はおそらく実際に夜空をながめて描いたのではないかと想像されるのである。  しかし、まあ、こんな物語に登場する夜空をまじめに検討するほど暇な人はいないわけで、誰も注目することがなかった。 たまたま、1984年、大阪に国立文楽劇場が誕生した時に曽根崎心中がかかったので、 開場にことよせてこのあたりの話を館の機関誌に書いたところ某新聞にも紹介していただいたことがあった。 文楽・歌舞伎に深い造詣を持っておられた故石田五郎氏が「見るたびに気になっていました」とのコメントを寄せられた(註3)。
  というようなことで曽根崎心中に描かれた夜空は随分リアルなことが分った。 300年前の夜空を再現することなどプラネタリウムが最も得意とするところであり、そもそもそのための器械である。 それによく知られている物語に登場する場面だし、舞台は館のすぐ近くである。これだけ有利な条件がそろっている。 実行あるのみだ。しかし実際にはまず技術的に不可能だった。

旧暦元祿16年4月7日(現行暦1703年5月22日)の。「暁の七つの時」の頃の夜空。

上限であったから月もなく、明るい惑星もなく、織姫星と彦星、それに北斗がよく見えていた。

近松の表現はとてもリアルである。

 3.材料を集める
  300年をさかのぼるとなると従来機種では苦しい。一周3分で回して15時間、投影時間に入らない(註4)。 その点、インフィニウム型のオートならノータイムで飛んでいく。この場合は最新型のプラネタリウムに分がある。 新科学館に移って本体がインフィニウムに更新され、最も大きな技術的な問題は片づいた。が、どう展開するか、いかに見せるか、 材料をどうするか、ソフトの方は課題山積である。映像と音をどこから調達したらいいのだろうか? もちろん文楽を離れて作ってしまうこともできるが、曽根崎心中は文楽用に作られた話だし、 だいたい文楽とプラネタリウムというミスマッチが面白そうだ。近松の知られざる側面を紹介できるだろうし、 文楽の普及につながるかも知れない。どうしても本物を使いたい!
  「今は繁華街で星など見えない梅田界隈であるが、300年前にはよく見えたはずだ。 その頃の星のことが近松の作品に描いている。その物語りを簡単に紹介すると・・・となっている。 実際にどうだったか再現するとこうなる。日月惑星のめぐりは複雑であるが規則的である。だから当時を再現できる。 近松はきっと夜空を見て描いたに違いない。科学館の近くであり、昔を想像しながらこのあたりを歩いてみてはどうだろう?」 というような流れをとりあえず決めて材料集めに移った。  国立文楽劇場ならびに文楽協会にうかがったところ、もし本公演に近い舞台を再現して撮影や録音となると大変な費用がかかるし、 時間的にもむずかしいことが分った。これはあっさり断念し、既成のもので構成することを考えた。
  舞台風景は写真で見せることにし、紹介していただいた写真家河原久雄氏に拝借することにした(註5)。
  音はどうするか?ライブラリーには使えそうな音は収蔵されていない。これは改めて録音しなければならないようだ。 費用の問題もあるので、若手にお願いしようと話を進めていたところ、文楽の映画「曽根崎心中」があることを思い出した。 前にテレビで放映していたのだ。調べるとビデオでも出ていた(註6)。見ると当代の名人達が出演している。 本公演では主に若手が大勢並んでうなるところを織大夫と呂大夫のお二人がじっくりと聞かしてくれるのだ。 それに公演にはない笛や鳴り物が実に効果的に使われている。これ以上の浄瑠璃はない!早速、 この映画を監督・制作された栗崎碧さんにお電話してみた。初めは文楽をプラネタリウムでやるということをなかなか理解してもらえず (それはそうだろう)、何度かのちぐはぐなやりとりの末、許可を得ることができた。
  さて材料のめどは立ったものの、出演者の許可はまた別である。 写真、音に登場する演者の方々にプラネタリウムで使うことを了解していただかなければならない。 遠くにお住まいの方々には電話で、文楽協会に所属する方々には公演の合間をぬって楽屋巡りをして許可を得た。 いつも舞台の上におられる演者にじかにお会いするのはびくびくもの、ずいぶん緊張した。 でもプラネタリウムをご存じの方が多くて話はスムーズに進んだ。 その昔、電気科学館の近くに四つ橋・文楽座があってプラネタリウムを見に行っていたというのである。 河原さんや、協会の小早川さん、館の総務課長などと一緒にぞろぞろと楽屋へ押しかけて行った。
  近松の肖像画は市立博物館にあることが分り、嘉数学芸員が手配してくれた。
  曽根崎の風景写真は筆者と嘉数学芸員が撮影し、夜景の撮影は川上学芸員が頑張ってくれた。
  全体の進行役をどうするか?制作のポトフさんと協議した結果、ひとつ女性講談師に頼んでみようということになり、 旭堂南華さんに決った(註7)。
  こうして材料が揃っていった。
  脚本は初稿を筆者が書き、それをシナリオライターに再構成していただき、さらに検討を加えて完成稿としたが、 実はここにミスがあって後で再録音という失態を演じてしまうのは後日のことである。
  制作はポトフシステムデザインにお願いしたが、関係者が多い上に、東京や文楽劇場に足を運んだりと、 勝手の違うやっかいな仕事になってしまった。

 4.できあがったものの・・・・
  こうして南華さんの解説に浄瑠璃が交互に繰り返されるという19分のソフトが組み上がった。 本会の総会の時にご覧いただいたのはこの第1版だった。できてみると初めのイメージと違っていたり、計算違いがあったりで、 不備が目立つものである。今回も例外ではなく、浄瑠璃がゆったりと進んでいくのに対し、 絵の動きと見学者の気持ちが待ちきれないというすれ違いが生まれてしまった。 その上、解説に誤りがあることも指摘されたので思い切って再録音し、短くすることにした。 経理担当に平身低頭お願いして何とか許しを得た。再録音時には南華さんが風邪をひいており、どうなることかと心配したが、 結果は上々であった。14分の第2版ができあがった。そして一晩徹夜して演出プログラムを修正し、第1版の寿命は一週間で終った。

 5.観客の評価 
 今回ほど観客の評価に幅があったことはなかった。そんなこと初めて知ったという方、文楽ってこんなものだったのかと感心する方、 本物を見に行かなければという方々がおられるかと思えば、子供が見るプラネタリウム(何という偏見!) に心中物語とは何事かと血相を変えて怒った中年のおじさん、星の出ないプラネタリウムにがっかりしたという方 (45分のうち星空の解説が30分あるのに!)、本物の文楽がかかると思ったのに違っていた(本物は劇場でしょうね)し、 文楽の雰囲気がまるで無かった(かも知れないが、文楽の紹介が目的です)という方々まで、その評価は多岐にわたっていた。 予想されていたとおり文楽の印象が強烈で、前半30分の星空解説と惑星の動きが規則的だから300年前の夜空が再現できるという 肝腎な点が忘れられてしまったようだ。総じて言えば、制作者が面白いと思っても観客はそれほど熱くなることはない、 という原則を再確認させられる評価が多かったように思う。
  国立劇場の方々、吉田文雀師匠、河原さん、南華さんなどにも来ていただいた。どんな印象か正直なところを知りたいのだが、 おっしゃって下さる方はいない。予想と随分違っていて、がっかりしたのではないかと危惧している。  この時のパンフを1992年の国際プラネタリウム協会(IPS)理事会へ持って行ってもらった(註8)ところ、 結構評判だったという。ただし、それは河原さんの写真が良かったということだが(写真1)。      

6.最後に
  完成された古典芸能はそれで一つの世界を構成している。それを流用するのは簡単なようで難しい。 演者や観客が様式を大事にしているだけに崩すことに抵抗があるからだ。当然のことであろう。 プラネタリウムでは舞台と同じようにはできないので、そのあたりの加減が難しい。流れのある物語の一部を切り取ることにも抵抗がある。 また、プロの方々は自らの芸で身を立てておられるわけで、いろいろな意味で芸を大事にされている。 一方、教育や研究分野では情報は広くばらまくことが望ましいという姿勢で、新しい試みや研究の成果はすぐに還元される仕組となっている。 つまり、われわれとは全くスタイルが異なっている。このあたりの機微を感じとれるようになるには時間が必要だ。
  筆者は、科学館や博物館の展示(プラネタリウム用ソフトも含め)は作るものではなく、集めるものだと考えているが、 既存のものを集めてプラネタリウムに仕立てるのは結構大変で、作ってしまう方がはるかに簡単である。 今回のプラネタリウムは集めてできたものであるが、このあたりの煩雑さを改めて思い知らされた。 でも文楽そのものに触れずに、たとえばアニメ風スライドと現代音楽で近松を紹介しようとしたらどうだったか、想像しにくい。
  投影のたびにどきどきはらはらの「曽根崎の星」も3ケ月で予定通り終了した。こんなに緊張したプラネタリウムもなかったので、 正直ほっとした。これほど館の内外を含めたくさんの方々の理解と協力を得て制作した作品はなかっただけに、筆者には思い出深いものになった。 これまでになく手間も費用もかかったが、上司がわがままを許してくれたからできたことで、感謝したい。 文楽の紹介もちょっとはできたかなと思っている。ただご覧になった方にどの程度満足感を得ていただいたか、今でも心配ではあるが。
  これまでソフトの一般的な制作法やできた作品については何度か紹介されているが、 裏話はあまり出ることがなかったと思ったので書かせていただいた。関係の皆さま方に改めてお礼を申し上げ、本稿を閉じることにする。 ご協力、ご支援、どうもありがとうございました。 

備考.プラネタリウム「曽根崎の星」要綱
投影期間 1992年6月〜8月
投影種類 一般投影
出演    旭堂南華/講談
       竹本織大夫/浄瑠璃
       豊竹呂大夫/浄瑠璃
       鶴沢清治/三味線
       吉田玉男/人形
       吉田文雀/人形
       藤舎名生/笛
       藤舎呂悦/鳴物
協力   河原久雄/舞台写真
       栗崎事務所/浄瑠璃
       国立文楽劇場
       財団法人文楽協会
       大阪市立博物館/写真
制作    ポトフシステムデザイン(株)

註1.当時の時刻体系と物語中での時刻
  七つの時が現在の何時になるか、議論のあるところである。館の機関誌に書いた時は2時半頃、投影では4時頃とした。 当時は不定時法であったから季節によって対応が異なり、5月中頃は2時半頃である。それで前者では機械的にこの時刻を採用しておいた。 しかし、改めて物語を読み返してみると進行上はもう少し後の方が良いように思われたので、投影では4時頃という表現にした。 目ざとい渡辺誠氏(富山市科学文化センター)は投影をご覧になって早速七つが4時では遅いと指摘された。 そして、橋本万平著「日本の時刻制度増補版」、塙選書55、塙書房、1978年、にこの曽根崎心中の時刻についての記述があることを 教えてくださった。

 註2.惑星位置の計算に関して
  この計算をやった当時は惑星位置をたちどころに示してくれる便利なパソコン用ソフトは見当たらなかった。 惑星の位置表は出版されていたが、自前で計算したりプログラミングしないことには勉強にならない。 というので摂動の話などを読み出したものの、それはそれで大変。そんな時某大学の卒論で同じようなテーマをとりあげたいという話が出たので、 とりあえずリファレンスになるようなものをまず入手しようと言うことで米海軍天文台から計算プログラムを拝借することにした。 ソースリストは1/2インチの磁気テープに入っていたので、これを某計算機センターでフロッピーに落とし、 パソコン用のバグだらけのFORTRANコンパイラにかけることができた。当時はようやくMD-DOS上でFORTRANが動き始めたところで、 256キロバイト7万円のメモリを増設しても天体ごとに分割して計算しなければならなかった。 手紙を書いたりテープ代を送金したり、数値演算プロセッサを増設したり(何とこれも7万円!)、 たくさんの方々の手をお借りしてようやく動いた。今から見れば馬鹿馬鹿しい話であるが、たった10年前のこと。 ということで、この一行を書くのに結構苦労した次第。 

註3.石田五郎氏のこと
  1975年頃、石田先生に講演をお願いしていろいろお話を伺ったが、大阪の地理に詳しいのでびっくりした。 聞くと、公演ごとに道頓堀朝日座まで岡山から通ってこられるというのだ。詳しいはずだ。 それで、先生をそれほど駆り立てる文楽とはいかなるものか一度は見ておきたいと思っていたが、なかなか機会がなかった。 石田先生はせっせと楽屋通いもしていたらしい。人形使いの人間国宝・吉田玉男師匠にお会いした時、 天文学者を知っているとおっしゃるので尋ねると石田先生だった。 星の文楽を作るんだと言っておられた石田先生は残念ながら昨年7月に亡くなられた。 玉男師匠としばし先生をだしに文楽談義を楽しんで3ケ月後のことだった。 石田五郎著「天文家渡世」、筑摩書房、1988年、が文楽・歌舞伎の話題に詳しい。

 註4.投影時間中に移動すること
  電気科学館時代も今晩の夜空の紹介は欠かせなかったので、あらかじめ300年前に設定しておくわけにいかなかった。

 註5.写真家河原久雄氏の文楽写真集
  氏は撮りためた素晴しい写真を最近出版された。「文楽−人形のこころ−河原久雄写真集」、講談社発行(1993年)である。 また今年の2月、東京・有楽町のマリオンにて個展を開催された。 

註6.映画「文楽曽根崎心中」のビデオ版
  栗崎碧監督・制作で、東宝株式会社から発売されている。昭和56年作品 

註7.旭堂(きょくどう)南華さんのこと
南華さんは実は若手の実力派・旭堂南左衛門さんの奥さんであった。南左衛門さんには「なにわの天文昔話」に出演していただいていた。 これが分ったのは後のこと、燈台もと暗しであった。なお、南華さんのプラネタリウム出演は某新聞社のかぎつけるところとなり、 かなり大きく紹介された。南華さんの話によれば、大阪には女性講談師は二人しかおらず、うち一人は中学生で、 参議院議員で講談師の旭堂小南陵さんの娘さんとのこと。したがって実際のところは南華さん一人らしい。

 註8.IPS92年大会
菊岡秀多:1993, Twilight, No.1, p.3, 日本プラネタリウム協会