ロボット「学天則」の生みの親

天則、西村真琴 及び 関係文献

西村真琴写真    学天則とはどんなロボットか    文献リスト   西村年譜


 1928年、圧縮空気を使って手や頭を動かす人形・人造人間「学天則」を制作した 西村真琴の関係文献および略歴を紹介します。

 関係文献は毎日新聞社社史編集室(大阪市北区)が収集したもので、 大阪市立科学館では同社の協力によりそれらを複製し、収蔵しています。改めて同社社史編集室のご協力に感謝致します。

 あわせて、かつて西村に教えを受けたことがある前田種子さん(大阪市立科学館友の会会員)所蔵の写真と簡単な年譜をご紹介します。

 なお、西村真琴と学天則については、荒俣宏著「大東亜科学綺譚」 (1991年、筑摩書房。文庫版もある)が詳しいので、これを参照するようお勧めします。

【大阪市立科学館に展示中の「学天則」】

これは当館オリジナルのオムニマックス映画「大阪 The Dynamic City」の撮影用に調整したセットをもとに制作したもので、 外観だけを模造しています。機構は入っていませんので動きません。

昭和18(1943)年、保育学校記念写真

最前列左端=長井斉(大阪音楽学校長)、最前列左2人目=保母学校長、 最前列左3人目西村真琴
最前列右端=ダンスの先生、最前列右2人目=西川義人医師(阪大)、最前列左4人目=古田誠一郎園長 (日本ボーイスカウト最高顧問)
前から2列目右端=前田種子さん


当時、四天王寺の近くにあった。設立されたばかりの保育学校であった。前田さんはすでに幼児教育に携わっていたが、スキルアップのため園から派遣されていた。戦時下の食料難のことであり、西村は実習と称して学生達を自宅に招き、自宅前の畑に植えていた芋を掘らせては振舞っていたという。大変ありがたいことだった、と前田さんは言う。

【昭和18(1943)年、保育学校記念写真。西村真琴】


学天則とはどんなロボットか?

日本で最初のロボット


 学天則は日本で最初のロボットとされています。手が静かに動き、表情がゆるやかに変るという動作は、昔からのからくり人形の奇抜な動きに負けるかも知れませんし、その機能は現代のロボットに比ぶべくもありません。でも、日本初のロボットとして多くの人に賞賛されているのはなぜでしょうか?
 それは、「ロボット」という概念を西村真琴がしっかり理解し、ヨーローッパで生まれたロボットという概念を越えたロボットを作ろうとしたからなのです。

カレル・チャペック

(1890-1938)

 では、そもそもロボットとはどのようなものとして構想されたのでしょう?
 ロボットの生みの親はチェコの小説家カレル・チャペック(1890-1938)で、戯曲「R.U.R.」(エル・ウー・エル、1920年)の中で、人間のために労働を肩代わりしてくれる人造人間を構想し、これにロボタ Robota、つまり、賦役や労働という意味のことばをつけました。現在では考え及ばないほど厳しい労働が課せられていた当時の労働者層に夢と希望を与える存在として歴史に登場したのでした。同時期、アメリカではテレボックスという電話をかけてくれたりする人造人間が提案され、イギリスではロボットという人造人間が構想されていました。
 西村真琴は1928年(昭和3年)11月のサンデー毎日誌上に「人造人間−ガクテンソクの生れるまで」と題する文を寄稿しています。そこに「日本で初めて生れた人造人間」と題する章を設け、生物学者である自分が学天則を構想した経過を記しています。物質の構造が明らかになってきた時代背景に基づき、「人工的に生物の体内に起こる化学作用を、分量的にも、温度の上からも、同様な状態を実験室内で真似得るを認め出したことから或いは生きた物質の人工製作に成功するのではあるまいか」とし、「生物の発生や進化にならへ−簡単から複雑へ−」のモットーの下、その初期実験として学天則を作ったことを記しています。
 西村の人造人間はチャペックに影響を受けたとは言え、ロボタともテレボックスともロボットとも違った、人間の素晴らしさを示す機械として構想されたのでした。「神は人を造れり、人は人の働きに神を見出す、神を見出さゞるを文明は呪はるべし」−これが学天則のモットーでした。

「記録台にたったガクテンソクの息づく胸に輝くコスモスの花章は、宇宙、世界という意味を負へることにおいて彼の胸を飾るに相応しくあります。左手には霊感鐙を握ってゐる。これが彼の額あたりで一度光明を点ずる時に、いはゆるインスピレーションが伝はると見るのです。右手の嚆矢のペンの働き出すのは、この時です。作者は凡そ人間の働きには常に創作がなくてはならないといふ理想から特に嚆矢のペンを選んだ次第であります。」
               (西村真琴、サンデー毎日、1928年(昭和3年)11月)

 

右:学天則、荒俣宏著「大東亜科学綺譚」 (1991年、筑摩書房)から

(以上、加藤)


西村真琴関係文献

分類

番号

タイトル

著者

その他

中国児童の養育

 

西村真琴

カラーコピー2部

凡人経

 

西村真琴

筆書きの随筆付き、扉カラーコピー有り

私の父、西村真琴のこと、他(魯迅全集第20巻)

昭和61年

西村晃

 

三義塚のハト

昭和46年

毎日新聞

 

北支仁術行脚、表紙、写真頁

昭和13年

 

 

北支平和工作にたづさはりて(北支仁術行脚)

昭和13年

西村真琴

 

Comparative Morphology and Development of ・・・

 

Makoto Nishimura

科学館では表紙のみ。博士論文への添付資料

神話(『保育』)

昭和13年

周 作人

 

とげうを、他

 

 

 

10

天狗にまちがへられた動物

 

西村真琴

 

11

盲導犬を語る

 

中村京太郎

 

12

自然人格化の空想(『保育』)

昭和13年

馮 飛

 

13

支那の子供(『保育』)

 

西村真琴

 

14

保育誌の会報

昭和15年

 

 

15

保育曼荼羅(『保育』)

昭和13年

西村真琴

 

16

餘韻は保育の秘訣(『保育』)

昭和14年

西村真琴

 

17

編集室から(『保育』)

昭和13年

辻 倫夫

 

18

科学随想

 

西村真琴

中央公論社

 

 

 

 

 

 

「人造人間」ガクテンソクの生まれるまで

昭和3年

サンデー毎日

 

興味をひく人造人間と新聞文化の大殿堂

昭和3年

大阪毎日新聞

 

 

 

  

明治ワンダー科学館

 

 

ホームページ記事

西村真琴教授を辞めて大阪毎日新聞社に入社

1996

杉山滋郎

ホームページ記事

学天則と西村氏の絵

 

 

ホームページ画像(2-4)

日本ロボット創世記

1993

井上晴樹

NTT出版株式会社

西村真琴博士の「人造人間」

1956

世川 憲次郎

毎日新聞記事

日本で最初の本社の人造人間

昭和13年

大阪毎日新聞

 

10

大地のはらわた

昭和5年

西村真琴

刀江書院

 

 

 

 

 

 

豊かな人材 新鮮な企画

1972

阿部賢一

毎日新聞記事

日本で死んだ中国のハト

1972

毎日新聞

毎日新聞記事

三義塚のハト

1980

毎日新聞

毎日新聞夕刊

「三義塚のハト」版画届く

1981

毎日新聞

毎日新聞夕刊

西村真琴

昭和5年

西村真琴

昭和新聞名家録

高校風土記松本高校ものがたり

平成元年

毎日新聞松本支局

郷土出版社

生物学者で保育事業の先駆者 西村真琴

平成5年

市民タイムス

 

10

1955

西村真琴

真琴が書いた詩(自筆コピー)

11

教え子の中国人から便り

1979

毎日新聞

毎日新聞夕刊

12

中国の疎開児

 

 

新聞記事(多分毎日)

13

小学生と記者の間

 

鍵田尚三

 

14

毎日新聞余話 東洋初のロボット

1994

毎日新聞

 

15

魯迅と西村真琴 事績年表

1999

石原忠一

豊中市日中友好協会

16

1羽のハトが結んだ縁

2000

毎日新聞

毎日新聞夕刊

17

西村真琴の著書リスト

1997

 

2冊分のリスト

 

 

 

 

 

 

保育曼荼羅(カラー挿絵)

 

 

 

学天則他、写真4葉

 

 

書籍掲載写真

 

 

 

 

 

 

大東亜科学綺譚

1991

荒俣 宏

 

RoboFesta KANSAI 2001, OFFICIAL GUIDE BOOK

2001

 

 

西村真琴関係写真(前田資料)

2001

前田種子

 

(以上、小野、加藤)


西村真琴 略年譜

石原忠一編「魯迅と西村真琴 事績年表」(文献3-15)、荒俣宏著「大東亜科学綺譚」(文献5-1)に基づいて作成

西暦

年号

年齢

できごと

1883

明治16

 0

3月26日、長野県松本市で出生

1899

明治32

16

松本中学に入学。父死去

1908

明治41

25

広島高等師範学校博物学科卒業。
京都・向日町小学校代用教員、乙訓町高等小学校長となる

1910

明治43

27

満州に渡り、南満州遼陽小学校長となる

1911

明治44

29

南満医学堂の生物学教授となる。手塚かずをと結婚

1915

大正4

32

渡米し、コロンビヤ大学植物学専攻科に入学

1920

大正9

37

コロンビヤ大学から博士号Ph.D.取得。欧米視察

1921

大正10

38

北海道帝国大学教授となる

1923

大正12

40

1月、晃誕生

1926

昭和元年

43

毎日新聞「五十年後の太平洋」論文へ応募

1927

昭和2

44

マリモの研究により東京帝国大学より理学博士号を取得。
12月、大阪毎日新聞社に入社。豊中市穂積に居住

1928

昭和3

45

ロボット「学天則」を制作、京都の昭和天皇御大礼記念博覧会に出品

1930

昭和5

47

著書「大地のはらわた」ベストセラー

1931

昭和6

48

北千島学術探検

1932

昭和7

49

上海へ児童親善使節団を引率、三義里で鳩を救う

1936

昭和11

53

大阪毎日新聞社社会事業団内に全日本保育連盟結成、初代理事長に就任

1937

昭和12

54

全日本保育連盟機関誌「保育」創刊(1945年2月号まで発行)

1938

昭和13

55

四天王寺悲田院内に民国窮民孤児援護会を設ける

1941

昭和16

58

隣邦児童愛護会を結成、理事長に就任

1945

昭和20

62

大阪毎日新聞社退社

1946

昭和21

63

大阪毎日社会事業団常務理事を辞任

1947

昭和22

64

大阪府豊中市市議会議員に当選、議長となる。1年で辞職

1949

昭和24

66

豊中市公民館長となる。神戸頌栄短大で生物学、保育等を教授

1951

昭和26

68

スライド「蛙の観察」、科学映画「阿寒湖のまりも」を制作

1956

昭和31

72

1月4日、豊中市にて逝去。享年72歳

(以上、加藤)