加藤賢一データセンター

ミノルタプラネタリウム株式会社発行「メテオ」誌第3号(1994年)所載

一つの思い出

加藤 賢一(大阪市立科学館)


「こりゃ,でかい!」
 ツァイスU型機はまるで今の世によみがえった巨大恐竜のようにうす暗いド−ムの中にそびえていた.それまで日本製品のお手本のような小型で力持ちのG社製モリソン型しか知らなかった私にそれは圧倒的な存在感で迫ってきた.「これと付き合うのか」と思うと,正直,気おくれしてしまった.


 私が大阪・四つ橋の電気科学館に就職したのは一九七四年のことで,すでにツァイス機は歳三七年を経て老境に入り,担当職員は次世代の機械が気がかりだった.新館は一向に具体化しなかったが、仲間うちではどんなプラネが良いのか,机上論を展開していた.
 いろいろ評価して見ると,プラネタリウムの

 @小型化と平面配置化,

 A低価格化,

が重要だと感じられた.ツァイス機はいかにもメカ的で「星の製造機」というイメ−ジたっぷりなのだが,視界をさえぎることおびただしい.大型化の要因の一つは惑星棚があることで,これを切り離してステラリウム+惑星投影機系と平面的に並べ,かつ小型化できれば,ド−ムの仕切り線も下がる.また,惑星ごとに別々の歯車を刻むのは効率が悪い.全部経緯台式にしてコンピュ−タで制御すれば共通に使える.こうすれば,例えばステラリウムだけという選択もできるではないか!

 「おいおいそれはインフィニウムやGSSのアイデアではないか?」と言われそうだが,その通りである.あの頃はだれもがそんなことを考えていたのだと思う.当時,ミノルタのプラネ部門におられた故佐伯有教さんとしばしばこの件では議論したし,「実用新案をとっておこうか」などと天文職員で冗談まじりに話したものである.正確な日付は忘れたが,一九八〇年前後のことである.

 佐伯さんは一九八二年ごろに若くして病没された.やさしい目とニヒルな横顔は男目にもとても魅力的で,誠に残念なことだった.菅道之氏によれば1975年ごろにはインフィニウムの開発が始ったというから,佐伯さんはひたすら黙ってわれわれの話に耳を傾けていたわけだ.

 一九八五年のつくば博でインフィニウムがデビュ−して一〇年後,サンシャイン・プラネタリウムでインフィニウムγに接した時,一種の感慨に襲われた.われわれが求めていたものを形にするとこうなるのだと私はすなおに納得することができた.これまで完成度を高めるには幾多の困難があったに違いないが,インフィニウムγはみごとにそれを克服していた.だからこそ,こじんまりと控え目に,でも私の目には自信ありげに光って見えたのだと思う.佐伯さんの横顔と重なってそう感じたのかも知れない.