加藤賢一データセンター

電気科学館星の友の会「月刊うちゅう」1989年9月号

四つ橋と私

片岡良子(No.2586)

本文へジャンプ更新 2006年2月2日 

 「涼しさに四つ橋四つを渡りけり」という小西来山の句は、私の大好きな俳句で、私
に四つ橋と電気科学館への橋渡しをしてくれた句でもあります。
 星の学校に通っていた頃の私は、バスを降りるとまず西の吉野屋橋を南へ渡り、下
繋橋を東へ、炭屋橋を北へ、そして上繋橋を西へ渡って科学館へ入ることにしていま
した。四つ橋を渡りながらこの名句を何度も口ずさんだものでした。
 今は、長堀川も西横堀川も埋め立てられ、高速道路が通ってその面影も留めていま
せんが、かつては船頭さんが竿で操船する船が通っていました。この地が何故「四つ
橋」と言われるのか知らない人が多くなってしまいましたが、水の都大阪のシンボル
だったのです。
 私がはじめてプラネタリウムと出会ったのは小学校四年生の時でした。
 横堀でガラス食器商を営んでいた父が「昼でも星が見える珍しい所が四つ橋に出来
たので、いっぺん見に行こう」と弟と二人連れて行ってくれました。私は昭和十二年
の四月から五年生でしたので、それはオープンしてまだ何日も経たない電気科学館と
いうことになるようです。
 昼間に入館したのに、天象館では夕方の大阪が写し出され、特に周囲の風景の中で
は、春日出の発電所と八本煙突が印象的でした。はじめて聞く星座の名や、星座神話
に好奇心の強い私は大変興味を持ち、その後時々父にねだって真昼の夜空を楽しみま
した。
 ご縁があって「星の学校」(通称四つ橋学校)の生徒になり、今は天文学者になられ
た中井善寛さんたちと、年齢の差など関係なく共に学びました。
 天象館のドームの外側は、屋上で地球儀になっていて、小さなタイルで北半球の地
図が描かれていました。
 昔はそこへ自由に登ることができましたので、中井さんやその他の男の子たちが、
観望会の夜もその上に駆け登って遊んだりしていました。私は、日本の辺りまでしか
登れなかったので、頂上のようすは男の子たちが教えてくれました。
 戦前は、星に興味を持つ女の子なんて全く変り者扱いをされましたし、星の学校で
も女の子は、私の先輩の佐竹さんと、大西姉弟のお姉さんの三人だけで結構目立った
存在でした。
 いつの頃からか、日曜日の星の学校だけでは物足りなくなり、毎日放課後は家に帰
らず四つ橋通いをし、閉館までいました。
 電気科学館の中枢の筈の天文部の部屋は、何故かトイレの奥にありました。どうし
てもトイレの中を通らねばならないので、女学生の私は、いつも走ってそこを通り抜
けました。毎日通って行っても別に用事があるわけでもないのに、天文部の先生方の
お話の中に自分がいるだけで満足で、お手伝いをすることでもあれば有頂天になりま
した。
 戦時中でしたか、手に入る初等天文書は手当たり次第購入して読み、父もそれを許
してくれました。
 昭和十九年六月のある日、突然小畠館長さんに呼ばれました。「用事もないのに毎日
来て邪魔をしないように」とお叱りをうけるのかと心配しながら館長室のドアをノッ
クしました。
 館長さんのお話はこうでした。「天文部の人たちが次々に召集されて人手が足りず、
このままでは天象館の上演が続けられなくなる時が来る。非常時なので女性が後を継
いでもらったほうがいいと思うので、来月からでも解説を手伝ってもらえないだろう
か」と。
 戦場に男性は駆り出され、銃後を守る女性がすべて代役をする時代でしたが、数え
年十八の私には余りにも突然の重責なお話で、腰が抜けそうになりました。
 私はその頃、女学校の卒業を待たずに、臨時教員養成所で六か目の特訓を受け、七
月から国民学校で教鞭をとるという軌道を走っていましたので、急に脱線することは
許されませんでしたからお断わりをしました。
 そのお話があった時は、高城先生が既に出征され、佐伯先生も出征の日が決ってい
た上、後に残られた青木さんは病気勝ちで、館長さんも苦肉の策だったのでしょう。
 昭和二十年六月、大阪大空襲の翌日に長堀橋の親友宅を探しに行くと、一面の焼野
原に科学館だけがヒョロッと建っていました。その時プラネタリウムが無事と聞いて
ホッとしました。
 天文講演会が再開され、山本一清博士が蝶ネクタイで解説台に立たれた時「生きて
いてよかった」と思いました。
 平成元年五月三十一日の第一回目の上演を天象館で鑑賞しました。
 解説台に恩師の故山本一清先生のお姿が幻のように浮びました。
 黒田先生の解説が始まると、その声がだんだん高城武夫先生の声とオーバーラッブ
して聞えて来て、涙がとめどなくこぼれました。
 電気科学館は私の青春そのものでした。特に女性が足を踏み入れにくかった時代か
ら私を快く受け入れて下さり、本当に抱えきれない多くの知識を授けて頂いたこの科
学館ともお別れなのかと思うと、一人感傷に浸ってしまいました。
 或いはこの席に立ったのかも知れなかった解説台を一周して最後のお別れをしまし
た。
 若い日に四つ渡った四つ橋を頭に描きながら上繋橋を通ると、昭和の時代も、電気
科学館も終って新しい時代に移り変って行くのだと、年をとった私が急に淋しくなり
取り残された思いがしました。
 ありがとうプラネタリウム。さようなら四つ橋の電気科学館。