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                この5月の大阪市立電気科学館の移転・新築を機会に、プラネタリウムが50年余の 
              お務めを終わって引退することになった。朝日新聞社からの照会でこのことを知り、 
              自分の歩んできた過去を振り返り、懐かしさとともに、研究の原点としてのプラネタ 
              リウムとの出会いについていろいろ思い出したものである。プラネタリウム天文教室 
              の影警を受けて成長した人は多いが、その中で間違ってプロの世界を歩んだ一人の男 
              のお話と思って読んで頂きたい。 
               私が天文学を志したのは、立志伝中の人のように強い決心や目分の意志によるもの 
              ではない。一生の路線の大部分はすべて運命と言おうか、少年期の環境や、人生にお 
              ける人との出会いに依ってなんとなく目然に決っていくもので、目分の場合もその様 
              な流れに乗って、のんびりと過ごして来たものである。 
               平和で物の余った現在と違って、私の四ツ橋天文教室時代は戦争に突入する寸前の 
              「鬼畜米英」「撃らてし止まん」「欲しがりません勝つまでは」のスローがンの時代で、 
              町は戦時色一色に染まり、多分後輩諸子には何とも理解の出来ない、娯楽も玩具も何 
              もかも想像以上に少ない神話の時代でもあった。言い訳になるが、私にとっても、も 
              う50年も昔の話で記憶も定かでない。間違いがあればお許し願いたい。最近あちこら 
              から昔話を聞かれるので、思い起こしたことを二・三お話したい。 
               昭和15、6年の頃、私が国民学校3,4年生の時(南十字星を建国の剣星と呼んでい 
              た頃)、元花山天文台長・山本一清博士の天文教室が、夏休みに小学校(国民学校?) 
               
               
              図1:電気科学館屋上の大地球儀 
               
              の児童を集めてプラネタリウムで催された。父母同伴で、あたかも入学式の様な雰囲 
              気で、プラネタリウムの入口で開場を侍つていたのを鮮明に記憶している。扉が開い 
              てドームの中はあたかもタ暮れの雰囲気を照明がかもし出し、周囲には大阪の地平線 
              の夜景がシルエットで浮かび上がっており、何とも子供心に荘厳な何か神秘的なもの 
              を感じさせる舞台作りであった。中央には真っ黒な鉄亜鈴の様なものが浮かび上がり、 
              近づくと無数の歯車とレンズのお化けのような物で、周囲を完全に圧倒していた。 
               席につくと、扉が閉められて音楽が奏でられ、微かなモーター昔が聞こえ、太陽が 
              西の地平線に近づき夕闇が迫ってくる。トップリ暮れると満天星に彩られ、客席から 
              は感嘆の声が聞こえた。山本博士のお話が始まった。機械の操作をしておられたのは 
              高城武夫さんだったと記憶している。 
               巧みな話術と操作で、夏の星座、星座にまつわるギリシャ神話、キリスト生誕のベ 
              ツレヘムの星、赤道・北極の星空等、自由自在に時間・空間を超えて我々を夢の彼方 
              へと誘ってくれた。星空が作り物等と思う余裕もなく1時間余りの講演・ショーが終 
              わった。この催しは通しで1週間ほど続いた様に記憶している。プラネタリウムはカ 
              ールツァイス社製で、精度の高い旦つ寿命の長い、今ふうに言うならアナログコンピ 
              ュータである。 
               その後、この魅力にみせられて毎週阿倍野から四ツ橋に地下鉄で通い、お話をうか 
              がった。また、天文教室なるものがあり、高城武夫さん・佐伯恒夫さん等アマチュア 
              (元花山天文台に忘願助手としておられ、高城さんは保時、佐伯さんは火星観測に従事) 
              が熱心に子供の相手をして下さった。深夜には屋上で地球儀のモザイクタイル張りの 
              ドーム(図1)の上に寝ころんで流星観測を指導して頂いた。又当時新鋭の25pカセグ 
              レン鏡で火星など遊星(当時東亜天文協会では惑星の事をこう言った)を見学させて 
              貰った。灯火管制下の大阪の空は真っ暗で、 
              天の川の明るかったことは網膜に焼き付い 
              て忘れられない。望遠鏡・機械装置のお話 
              もあつた。 
               特に記憶に残っているのは、そのころ話 
              題のハッブルの膨張宇宙のお話で、「100億 
               
              図2:花山天文台の45p屈折鏡 
               
              図3:飛騨天文台の60p反射鏡 
               
               
              光年の彼方の星雲は光の速度で遠ざかっており我々からは見えない。これが宇宙の果 
              てである。その先は?」と言うもの。そのころの最大の望遠鏡はウィルソン山の100イ 
              ンチ反射ではなかったか?見えるのは高々20億光年。少年の心に浮かんだ事は「宇宙 
              の果てを見る為の望遠鏡を作ろう」。これが川上新吾君の言う間違い人生の出発点で 
              ある。今風には「これっきゃない」。結果的には以後その様な路線をたどることになる 
              ので、これに依つても、人の一生にとつて幼少の頃の心が素直で真つ白なときに、環 
              境・教育の与える影響がいかに大きいか分かる。 
               そのころの私は引っ込み思案で人見知りをする方で、両親は医者にでもしたかった 
              のだが、人付き合いができなくてはとうてい無理で、天文学なら一人でこつこつやる 
              のだから何とかなるだろうと思いこんだ。 
               父は同郷の鳥養京大総長、上田京大(理学部宇宙物理学教室)教授・花山天文台長に 
              相談を持ちかけると、なんと無責任にも、「面自い、いいでしょう」と小学生をつかま 
              えて話を決めてしまった。子供の趣味と専門をごちゃごらやにするとは、当時の学者 
              はなんと大様なものだったか。当時役にもたたない天文学を志すような奇特な御仁は 
              少なかったからではなかろうか。なんとなく大学は天文志望ということに相成った。 
               その後、職員の方も一人二人と応召し、集まりも自然消滅した。私も京都に移り中 
              学校、高校、大学を過ごし昭和30年に大学院にはいった。その頃、日本は非常に物理 
              観測面で諸外国に遅れており、宇宙物理学教室に配属されてからアメリカ空軍の中古 
              の光電管や真空管を買い込んでは光電測光装置を自作した。以後日本経済の成長と共 
              に宮本正太郎教授の機関研究費が続々と通り、爾来、周りを見渡しただけでも70cmシ 
              ーロスタット、45cm屈折鏡(図2)、60cm反射鏡(図3)と息つく暇もなく製作に専念さ 
              せられた。60cm鏡は最も思い出深く、博士 
              課程の3年間、新潟の長岡市の津上製作所 
              に出向し、カールツァイス贔屓の社長の趣 
              味と一致したのか、採算度外視で思う存分 
              の仕事をさせて貰った。初めての悔いの無 
              い作品である。その後、飛騨天文台建設計 
               
              図5:65p鏡の15mドーム(手前) 
               
               
              画が始まり、天文台設計、65p屈折鏡(図 
              4)、15mドーム(図5)、60pドームレス太 
              陽望遠鏡(図6)と、大物の設計・製作指導 
              が続いた。飛騨天文台の二望遠鏡はカール 
              ツァイス(西独)と組んで完成させた物であ 
              る。その製造期間にオーバーコーヘンの本 
              社を約10回訪れたが、望遠鏡の組み立て工 
              場の隣で、なつかしの四ツ橋の弟分のプラ 
              ネタリウムを、相も変わらずこつこつと作 
              っていた。今年になってからコンピュータ 
              制御の試作を行なっていた。 
               現在私は、細々と観測結果の解析整約用 
              の画像処理計算機(図7)を手がけ、次なる 
              中□径望遠鏡計画(図8)の設計を始めてい 
              る。     (なかい・よしひろ:花山天文台) 
               
               
              図6:飛騨天文台のドームレス 
              太陽望遠鏡 
               
               
              図7:花山天文台の画像解析システム 
               
              図8:京都2.3m望遠鏡計画 
               
              スペイン・カラーアルト天文台 
              3.5m望遠鏡ドームの頂上にて 
              左からインデンボイメン博士(西独 
              ツァイス)、ビルクル天文台長、筆者 
               
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