加藤賢一データセンター

電気科学館星の友の会「月刊うちゅう」1989年8月号

大阪のプラネタリウムと私

高木公三郎

本文へジャンプ更新 2006年2月2日 

  プラネタリウムが50年余り、沢山の方々の御努カで、立派にやつて釆て載いたこと
を感謝いたします。終戦後、四ツ橋に出かけて、あれがともかく助かったのを見て、
ほっとしたことがありました。
 ミノルタが日本製のを作る時、私のところにあった昔のブラネタリウムに関するも
のをほとんど差上げてしまいましたので、今は何もないのですが、思いつくままに記
してみることにいたします。
 ツァイスのブラネタリウムを最初に注文して、第1号を作らせたのは、ミュンヘン
のドイツェ・ミュージアム(有名な目然科学博物館)の館長であつたオスカー・フォン・
ミラー(Osker von Miller)で、ハイデルベルグ天文台長のウォルフ(Wolf)教授と
相談し、ドームの内側に星空を投影し、ドームの中にいる人々に見せることを考えて、
その機械をツァイスのバウエルスフエルド(Bauersfeld)博士に工夫させたのです。
ミラーは、19934年に逝去し、私がツァイスやミュンヘンに行った1936年には既に故人
となっておられて、お会い出釆ませんでしたが、惑星の動きを正しく示すための軌道
や周期を表わす歯車の計算などに努カされたとのたかぎことでした。
 私はシベリヤ・ラインで行きましたので、はじめにモスクワの、当時としては新し
いプラネタリウムを訪れ、施設や取扱い上のいろんなことを、はじめて勉強しました。
特に北天、南天を見るための椅子の工夫、その配置は、なかなかよいと思いましたが、
大阪へ報告しておいたのに、大阪の椅子は全く駄目でがっかりしました。つまらぬ事
情であんな椅子になったのですが、その後の日本のものはいすれも駄目です。
 それはともかく、ツァイスの工場ではやっと部品が完成し、大阪のブラネタリウム
を組み立てることとなっていた時に、私、
がイェナに着き、ランゲ氏が中心で私も
参加してその組み立てをしたわけです。
星々の関係を整えるために、投影しなが
ら微かなところをやったものです。
 大阪のを1937年に組むのは、ツァイス
日本在住のヘンスゲン氏とミュンヘンか
ら来たランゲ氏と電気局の岡本さんで、
私も京都から毎日通って立合いました
 ツァイスの第1号、ミュンヘンのもの
は、北天だけの投影器でしたが、その後
は南天全天のものになりました。大阪の
施設は、世界第25番目、東洋では最初と
いうことです。
 ベルリン、ニューヨーク、ロサンゼル
スなどで夫々一日、二日とべつたり付い
て施設や扱い方を見せてもらい、偉そう


プラネタリウムの到着を報じる当時の新聞
左上の写真が高木先生(東京目日新聞)



に若干のアドバイスをしたりして帰って来ました。私の知った限りのことを大阪で実
際にやりながらお伝えしたつもりでしたが、100%うまくやって下さっていたかどうか
判りません。うまく扱うには、機械と皆さんに対するほんとうの親切心が必要だと、
その頃しみじみ思ったものです。
 思い出すこと、いろいろありますが、今回はこれで失礼します。プラネタリウムは
教育施設で、それで輸入したときも税金を支払っていないのです。今後も出来れば正
しい教育のために使つてほしいものです。その様に使えるところへおいてほしいもの
ですね。                       (たかぎ・こうざぶろう)


高木公三郎先生とプラネタリウム
 高木先生は、京部大学理学部宇宙物理学科をご卒業になり、山本一清博士のもとで副手として天
体力学の研究をなさっていました。プラネタリウムの導入にあたっては当初から山本博士が指導さ
れていましたが、高木先生はベルリンオリンピツクのボートのマネージャーとしてドイツに行かれ
る際、大阪市より委嘱されてプラネタリウムの現地検収などにあたられました。電気科学館の開館
前後は、プラネタリウムの組み立て、使用法、説明法等、種々指導をお願いしました。戦後は京都
大学の教授となられ、医学博士。カヌーを日本へ初めて紹介なさったことでも有名です。