天文室略史
黒田 武彦
大阪市立電気科学館天文室報 2
1980年度
1923年(大正12年)10月、大阪市域の電燈事業を大阪電燈株式会社より引きつぎ、大阪市電気局(平塚米次郎局長)が発足した。
1933年(昭和8年)に電燈市営10周年を迎えるにあたり、一大サービス施設として電気科学館の建設が具体化することになった。
1932年(昭和7年)7月、電気科学館建築委員会を組織、同時に設計を進め、1934年(昭和9年)5月起工した。
同年12月、木津谷栄三郎(電燈部長)の欧州視察の結果、設置予定のスケートリンク(6,7階)からプラネタリウムへ変更の機運が盛り上り、
電気科学館陳列実務委員会(1933年5月設置)等でこれを討議、電気館展示の内容を最終決定した1935年(昭和10年)2月、
京都帝大教授・花山天文台長・山本一清らの意見をもとに、プラネタリウム設置を内定した。1935年1月、
設置工事促進のため電気科学館開館準備委員会(木津谷委員長)を設置、諮問機関として学識経験者から成る天文部会、陳列部会、設備部会、
図書部会の4部会が組織され、専門的に資料、設備計画にあたった。山本一清及び京都帝大理学部副手・高木公三郎等は電気局嘱託として直接実務に参画した。
1935年5月17日、プラネタリウム購入を市会へ提案、6月1日市会委員会通過、6月29日市会本会議にて議決され、正式にプラネタリウム導入を決定、
天文部門の活動がここに開始されることになった。
開館に向けて、
電気局員の原口氏雄と清水富士雄、中島信夫の両技手がプラネタリウム解説を担当することになり、清水、中島は、1936年(昭和11年)8月、花山天文台にて山本一清の天文指導を受けた。さらにプラネタリウム導入に尽力した高木公三郎を解説陣に加え、
1937年(昭和12年)3月13日の開館を迎えた。開館記念特別解説には山本一清があたった。
しかし、プラネタリウムは電気応用天体運行照写装置という解釈で、あくまでも“電気”の域を出ず、施設を“天文学”の教育、
研究機関として推し進めようとした高木は、館長・小畠康郎と対立、早々に解説員を辞し、京都帝大教官への道を進んだ。そのため、
無給嘱託研究員として花山天文台に在り、東亜天文協会理事の傍、生駒天文博物館の主任になったばかりの高城武夫が、急拠天文部主任として入館(1937年8月)、併せて東亜天文協会大阪支部が天文部に置かれることになった。
1938年(昭和13年)夏、解説の充実を図るため、小林と青木(1942年頃没)の入館を見たものの、小林は、清水、中島らとともに、
年末までに召集等で職を離れた。そこで、1939年(昭和14年1月)、東亜天文協会々員に解説者を募り、4月に桜井忠雄、井尻、清水の3名が入館、
1941年(昭和16年)に入り原口が召集されたため、花山天文台無給嘱託研究員で惑星観測に活躍中の佐伯(当時渡辺)恒夫が入館した。
太平洋戦争の勃発にともない、館も戦時体制に対応、1942年(昭和17年)2月、電気局直属課となったが、電気供給事業の民間移管により、同年6月、
市民局庶務課第一類事業所となった。この間、桜井、井尻が応召、1944年(昭和19年)には佐伯も応召した。この結果、北見彰久が入館(数年で退職)、
同年12月には、東亜天文協会及び大阪天文研究会で活躍中の神田壱雄が入館した。その後、1945年(昭和20年)3月13日、大阪大空襲により被災、
機能縮小により同年4月市民局町会課所属となり、同年6月1日よりプラネタリウムを閉鎖した。昭和19年以前は、
屋上に設置された25cmカセグレン式反射赤道儀等を用い、数多くの観望会を催すとともに、天文部員も星食観測や惑星観測に利用したが、
これらの設備も被災した。なお、1943年(昭和18年)2月5日の日食には、大阪市観測班が結成され、高城が班長として出張した。
終戦を迎えて、1945年(昭和20年)9月、社会局社会教育課所属として出発した。佐伯が復員し、同年10月には大阪天文研究会々員の戸田文夫(註4)が加わって、
1946年(昭和21年)2月、プラネタリウムを再開した。その後、館の所属は、1948年(昭和23年)5月に民生局福利課、
同年10月には民生局第二類事業所へと変っていった。
1948年(昭和23年)9月に創立された日本暦法協会は、その事務局を天文部におき、高城が常務理事を、佐伯、神田、戸田が幹事を努めた。
1952年(昭和27年)に高城が退職、1956年(昭和31年)4月に京大理学部宇宙物理学研究科在学中の佐藤明達が入館するまで、
保守担当の岡本績が解説を援助した。この頃、博物館学芸員協議会の事務局として、春、秋に会議を招集し、全国的な交流がなされた。
一方、1958年(昭和33年)12月、佐伯は東亜天文学会副会長に就任、1963年(昭和38年)2月に電気科学館主査となった。
1963年5月、神田が退職、同年6月に館の所属が現在の教育委員会事務局社会教育部となった。1964年12月、神田の後任として、 上宮学園天文部で活躍した菊岡秀多が入館、 1970年(昭和45年)4月に佐藤は主査となった。 1971年(昭和46年)10月、佐伯が退職し、その後任として1972年(昭和47年)9月、 香川大学教育学部を卒業し東北大学理学部天文学科研究生を経た 黒田武彦が入館した。1973年(昭和48年)9月の戸田急逝にともない、 1974年(昭和49年)4月、東北大学理学部天文学科を卒業した加藤賢一が入館し、 現在に至っている。
註)
・原文執筆 黒田武彦(現、兵庫県立西はりま天文台公園園長)
・採 録 加藤賢一、2004.3.26.
・なお、同様の内容が大阪市立電気科学館星の友の会発行「月刊うちゅう」1987年3月号10頁に掲載されている
註1)その後のこと(加藤、2006.1.11.)
註2)岡本績による解説(加藤)
本文では『1956年(昭和31年)4月に京大理学部宇宙物理学研究科在学中の佐藤明達が入館するまで、保守担当の岡本績が解説を援助した。』
となっているが、岡本の話では解説を担当したのは1953年10月頃から1956年12月までだったという。
註3)火星クレーター
Saheki と佐伯恒夫(1916-1996)(加藤、2006.1.11.)
2005年12月28日付けで、佐藤健(さとうたけし 738-0001広島県廿日市市佐方2-57-、kensugar@urban.ne.jp)氏より火星のクレータの一つが「Saheki」と命名されたという連絡があった。2006年夏にプラハで開催されるIAU(国際天文学連合)総会で正式承認となるが、提案するIAU第16委員会(惑星と衛星の物理的研究)の
Dr. Bradford Smith
より最後の総会における形式的手続きを除いて全ての作業が終了したという知らせが入ったという。Sahekiクレーターは直径が85kmという大きなクレーターで、火星面の地形に日本人名がついたのはこれが最初のケースである。
佐伯恒夫(1916-1996)は、惑星の物理観測にあまり学界の目が向かなかった時代に小望遠鏡による火星の表面構造の観測的研究を続け、その鋭敏な視力を武器に、火星面での気象現象の多様性を示した。彼が活躍した直後に探査機による直接観測が始まったため、その先駆けとなったことで国際的にも注目を集めた。こうした功績により、1973年には大阪市民文化賞を受けた。また、プラネタリウムの解説でも大きな評価をえており、「火星の観測」をはじめ数々の著書もある。東亜天文学会の幹部としてアマチュア天文家の育成・指導、天文の普及教育活動、プラネタリウムの普及等に活躍した。
この内容は朝日新聞でも伝えられた(担当:杉本潔記者。2006年1月21日大阪本社夕刊、2006年1月22日東京本社朝刊)。
註4)戸田文夫氏(1926-1973)のこと(加藤、2006.10.28.)
1968年10月1日の新大阪新聞に戸田さんが紹介されている。それによる略歴は以下のとおり:
「大正一五年一月三日生まれ、四三歳、大阪出身。昭和一六年陸軍兵器工廠技能者養成所卒業。在学中から天文学を独学、昭和二十年十一月大阪市立電気科学館に就職、プラネタリュ−ム解説員となり現在に至る。」