加藤賢一データセンター

手塚治虫と電気科学館

 大阪市近郊に生まれ育った手塚治虫(1928-1989)。少年期に開館間なしの大阪市立電気科学館(1937年開館)に通いつめた聡明な科学少年であった。大阪大学医学部という難関大学を経て医師となり、医学博士号を取得して本格的に医業に邁進するかに見えたが、漫画家への夢を捨てきれず、ついに転進し、そして漫画・アニメという新しい表現手段の世界で第一人者となった。手塚と電気科学館との関係を概観する。
 【1】は手塚自身の手になる電気科学館プラネタリウムをめぐる回顧録である。【2】はこの寄稿文と電気科学館50周年記念講演会を巡ること、【3】はお菓子「プラネタリゥ−ム」を巡る話である。

 なお、手塚と「プラネタリュ−ム」、石原石原時計店社長・石原実さんのこと(【1】参照)などは下記のウェブページが詳しい。一度ご覧いただきたい。

 

1】大阪市立電気科学館星の友の会 「月刊うちゅう」 1985年7月号への寄稿

 

懐しのプラネタリウム

            手塚治虫

 淀屋橋交叉点の角のビルに石原時計店という
立派な店がある。ここは戦前、心斎橋筋にあっ
た老舗で、現在の社長の石原実氏は、ぼくの小

学校のクラスメートだった。彼がぼくを星の世界へいざない、プラネタリウムと結び
つけてくれたのである。
 石原君は、時計屋の息子らしく根っからのエンジニアで、作文が大の苦手であった。
ある時、作文の時問に先生に、「君はいつも機械の組み立てとかの話ばかり書くけれ
ど、たまには別の題材も探して書いてごらん」と注意されて、一晩考えたが遂に何も
思い浮かばず、結局、書いたのは「何も思いつかなかったこと」というタイトルの作
文だったという逸話がある。
 その彼が、ぼくを四つ橋の電気科学館へ誘ったのは、開館して問もない頃であった。
建ったばかりのピッカピカのビルが遠くから見えた記憶がある。まだ阪急宝塚線の鈍
行が木造箱型の二輌連結で、円タクの横腹にタラップがついていた時代だった。東洋
で最初のプラネタリウムという宣伝に心がときめき、なにか巨大な恐竜みたいな怪物

を思い浮かべながらはいっていった。
 どちらかというと石原君は階下の
機械陳列室の方がお目当てのようだ
った。それはそれで実に娯しい体験
であった。今でも忘れないのは凹面
鏡のトリック装置で「まぼろしの花」
という展示。正面から花が見えるの
に、手を伸ばしてもそこに実体がな
く掴めない、という例のものなのだ。
 プラネタリウムのホールを囲む廊
下の壁には、星団や渦状星雲や、プ
ロミネンスやコロナの写真が並べて
飾ってあり、その当時にはそれだけ
の数の天体写真が一堂にあるという
だけで驚異だった。ホールヘはいっ
た時の印象は強烈だった。あの鉄亜
鈴の奇怪な姿は目に焼きついて、後
年漫画の仕事の上で負、しばしばイ
メージを流用させて貰ったくらいで
ある。今考えると、あのデザインは
たしかにライカやコンタックスの新
型カメラに通じるかっこよさで、ナ
チスドイツの光学技術の粋であった。

日本の泥臭い兵器や車などとは
格段の差があった。それからホ
ールの地平線にあたるところに
電気科学館の屋上から360度の
市内の展望がシルエットになっ
ていた。解説の人はかならず前
説にそれを説明するのだった。
そして太陽がうつし出され、市
内のシルエットに沈んで行くと
ころから実演がはじまるのだっ
た。
その前後に、いつもホールに
流れる曲があった。ずっと後に
なって、それがエルガーの「威
風堂々」だと知るまでは、ぼく

はてっきりプラネタリウムのための曲だと思い込んでいたのである。この曲がかかる
だけで忽ち神秘的な宇宙空間的な気分に酔うのだった。視聴覚イメージの効果はおそ
ろしい。
ホール入口の正面に向って左側にささやかな売店があって、そこに絵はがきやパン
フレットと共に一般向けの天文書なども売っていて、ぼくはそこで、原田三夫氏の「子
供の天文学」という本を買った。この本こそ、ぼくと同年代のSF作家や絵描きが気
違いのように愛読したものなのだ。小松左京、筒井康隆、その他数え切れぬ当時の少
年達がこの本の豪華な想像画や最新の天体写真に熱中し、ボーデの法則や、島宇宙や
ダイヤモンド・リングなどの用語を覚えたのだった。
この売店で、少しあとになって売り出したのは、「プラネタリウム」というお菓子
である。やや長めのクッキーに、銀の砂糖粒を散らしてある。それがつまり星空とい
うわけだった。ちょいと工夫をこらした何の変哲もない菓子なのに、ぼくは毎度それ
を買って帰った。ぼつぼつ甘いものが不足していった時代だったせいであるが、結構
旨かったのである。
プラネタリウムを観たあとは、時折、屋上へ昇った。ドームが半円形に屋上に膨れ
上って、それを地球の北半球にしつらえてあった。腕白たちは、なんとか北極までよ
じ登ろうと試みた。下の方は傾斜が急で、ぼくにはほとんど登れないしろものだった。
南を見ると、大丸デパートの手前に、建って問もないそごうのモダンなビルが聳えて
いた。そのほかには、そのあたりにはまだほとんど目ぼしい高層建築がなかったよう
に思う。
だいたいひと月に一回、演題がかわるたびにプラネタリウムヘ通った。やがて、装
置のしくみがわかってくると、自分でもプラネタリウムをつくれないものかと、大そ
れた考えにとりつかれた。家の石鹸箱に星座図を見ながら火箸でブスブスと穴をあけ、
箱の中に裸電球をさしこんで部屋を暗くし、天井へ穴の光をうつしてみた。四角い箱
から四角い天井へうつすのだから、プラネタリウムとはほど遠いものである。だが星

 

はうつった。夜まっくらな中で
うつすと、北斗七星やカシオペ
アやさそり座らしきものが天井
や壁にうつし出されたのだ。
 ところがよく見ると、どれも
丸い形をしていなかった。ミミ
ズのようにくねくね曲った像や
のだ。どうしてこうなるのかす
ぐにわかった。電球のコイルが
らせん状なのだ。だから同じよ
うな形に像を結ぶわけだ。穴の
一つ一つにレンズをはめこむな
どという細工は、とてもできな
い。それでもなんとか満足して
家の者を部屋へひき込んで、解
説つきで見せたのだった。

 しかし遺憾なことに、ひとしきり解説が終る頃には、弟妹たちは眠りこけてしまう
し、おふくろはいらいらと中座して台所へ行ってしまう始末だった。
 戦後、大学生になったぼくは、ふたたびプラネタリウムヘ通いはじめた。これは、
ホールが一時アメリカ映画の上映をしていたから観に行ったので、正直なところプラ
ネタリウムが目的ではなかった。ドームの一方の壁に映画を映して観せ、それが終っ
たあとプラネタリウム映写、の二本立てなのである。従って、ついでにプラネタリウ
ムも観てしまう。映画が一週問替わりだから、おなじ演題のプラネタリウムをひと月
に何回も観るはめになる。おしまいには居眠りをしてしまうのであった。
 先日、仕事のために久し振りに電気科学館を訪れた。ホールの中はさすがに美しく
なっていたが装置は昔の儘だった。懐しくてたまらず、抱きつきたい衝動にかられた。
                                    (てづか・おさむ漫画家)

先頭に戻る

2】寄稿文、電気科学館50周年記念講演会

 上で紹介した手塚の手稿は1985年であるが、その2年後、1987年には電気科学館開館50周年記念行事があり、手塚治虫を講師に招き、プラネタリウム・ホールで講演会を開催した。

 そもそもは、1984年頃、イレブンPMという深夜のテレビ番組があり、手塚が大阪の思い出の場所を巡るという企画で、電気科学館のプラネタリウムにもやってきたことであった。それまで、「手塚が昔よく来ていたらしい」という話は聞いていたものの、私たちが彼自身からそれを聞いたのはこの番組が初めてであった。そこで、黒田武彦さん(当時天文スタッフ、現兵庫県立西はりま天文台公園園長、兵庫県立大学教授)が原稿を依頼し、開館記念行事にも引っ張り出したのであった。当時、手塚は多忙を極め、それは世間にもよく知られていたことであったので、随分遠慮していたのだが、電気科学館の閉館も予想されていたので、この機会を逃しては二度とチャンスはないということで、黒田さんが大変な奮闘をされ、館首脳を説得してようやく実現に漕ぎ着けたのであった。

 この手塚の文章から、私たちは「プラネタリウム」なるお菓子があったことを知るに至った。しかし、さて、今はどうなっているか、残念ながら知るすべがなかった。それがひょんなことからわかり、新聞掲載までされることになった話は次節に譲る。

 講演会は大盛況であった。手塚ファンが駆けつけたのはもちろん、作家で作詞家の石浜恒夫さん(1923-2004)がお嬢さんの紅子さんを伴って来てくれたのは殊に嬉しかった。石浜さんは「月刊うちゅう」(1985年5月号)に素晴らしい紀行文を寄せてくださっており、さすがに作家と思わせるその文章に僕はしびれていたからであった。石浜さんはフランク永井の歌った大阪ロマンやアイ・ジョージのガラスのジョニーなどを作詞していたことで僕らの世代には知られていた方だった。当然、手塚をよく知っていたはずである。

講演風景 記念色紙
先頭に戻る

3】大阪銘菓『プラネタリューム』

 当時、電気科学館の事務を手伝ってくれている丸顔の青年がいた。時々、手の足りないときなどにアルバイトをお願いすることがあったが、彼はそんな臨時的な仕事を手伝ってくれていた。「月刊うちゅう」に手塚の文章が掲載され、たまたま事務所でそんな話をしていたら、その彼がお菓子「プラネタリューム」を知っているという。どういうわけかを尋ねたら、それを家で作っていると言う。これに一同びっくり! 何たる偶然か! しかし、偶然と思ったのはやや間違いで、彼は家業が電気科学館に関係していたことを知っていて勤める気になったのであった。本当の偶然は、その彼が勤めていた時期が手塚の原稿と重なったことであった。

 こうして、その千成一茶の大原さんから、私たちには幻の銘菓「プラネタリューム」を頂戴し、1985年12月頃、友の会会員一同と共にお茶会をすることになった。この模様は某新聞社が伝えるところとなり、手塚や昔のプラネタリウム談義に花が咲いたのであった。

 こうして銘菓「プラネタリューム」の歴史もわかって1985年11月の「月刊うちゅう」の記事となった。

電気科学館星の友の会「月刊うちゅう」1985年11月号14頁。執筆は黒田武彦さん

大阪銘菓
『ブラネタリューム』について

編集部

 「うちゅう」7月号のこの欄は漫画家の手塚治虫さんに登場願いましたが、その中で手塚さんがプラネタリウムを見る来るたびに買い求めていた『ブラネタリューム』という菓子についてふれておられました。『やや長めのクッキーに、銀の砂糖粒を散らしてある。それがつまり星空というわけだった。ちょいと工夫をこらした何の変哲もない菓子』だったということです。この菓子は昭和14年から約2年簡、大原菓子研究所で製造されたフィンガービスケットであることがわかりました。『プラネタリューム』という名称は登録商標となっており、昭和16年には(株)三星社、昭和26年9月26日からは千成一茶と社名は変ってきましたが、実は『プラネタリューム』という名の菓子はまんじゅうに形を変えて生き続けていたのです。
 大阪市都島区都島本通2 (TEL922-2010) の千成一茶本舗だけでしか販売されていませんが「宇宙時代の味」というふれこみ、なぜか心がときめきます。

 

銘菓『プラネタリューム』については「月刊大阪人」2006年1月号に詳しい紹介とともに、当主大原時子さんが手塚との思い出などを寄せておられる。いずれ詳しい紹介をしたい。

 
先頭に戻る

(2006.1.29.)