29/Feb./2012 新設
20/Mar./2012更新


金環日食むかしばなし


     *** 目   次 ***
   1.日本で見えた金環日食の記録
   2.金環日食とこよみ
   3.「金環食」という用語
   4.昔の記録をしらべよう
   5.余談 日食中の気温変化


1.日本で見えた金環日食の記録
 江戸時代の日本では2回の金環日食が見えており、幕府天文方が編纂した 『寛政暦書』には、観測記録が記載されています。

(1)享保15年6月1日(西暦1730年7月15日)
 『寛政暦書』によると、京都では金環食が見えています。 京都での記録は見当たりませんが、土御門家では観測していたものと思われます。

 『寛政暦書』巻33
  「六月戊戌朔、有日食、未二刻初虧、未七刻甚、於正南九分餘、申四刻 復円[於京師所見金環食]」
読み下し文:「六月戊戌ついたち、日食あり。ひつじの二刻に初虧、ひつじ の七刻に甚、正南において九分あまり、さるの四刻に復円。[京師(けいし・ 京都)において見るところ金環食]」
( 注:「初虧」は食のはじめ、「甚」は食の最大(食甚)、「復円」は食の おわり)

(2)天保10年8月1日(西暦1839年9月8日)
  江戸では金環食が見えています。この時は日出帯食で、渋川景佑の小石 川三百坂測量所では、日出直後、地平高度1度あまりになった時点で金環食が 始まったそうです。
 『寛政暦書』には観測時刻が詳細に書かれています。記載されているのは、 江戸における地方真太陽時のようです。

 『寛政暦書』巻34
  「八月甲子朔、日出帯食皆既、日出五時三十九分十六秒、食甚金環五時 五十零分十二秒、復円下偏左五度、六時五十八分四十五秒」





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2.金環日食とこよみ
 日食や月食がいつ起こるかという予報は、毎年の暦に記載され、一般にも 事前に知らされます。ただ、現在の日食予報とちがうこともありました。 まず発表されるのは京都のデータだけでした。伊勢暦など一般に頒布される 暦は、都であった京都を計算基準にしています。そのため、食が見える時刻 や食分は、京都でのデータのみが記載されます。他の場所での様子はわかり ません。食分の浅い日食であれば、場所によっては起こらないこともありま した。19世紀に入ると、「東国では深く(欠け)、西国では浅いだろう」とい うように、少し詳しく記載するようになりましたが、現在のように各都市で の見え方は、自分で計算しない限りわかりませんでした。
さらには、18世紀後半まで用いられていた暦法(宣明暦、貞享暦、宝暦暦)は、 現在からみると精度が低かったため、予報値と実際の食分とが異なる場合も 多くありました。
 そのような事情もあり、享保15年の日食は、京都で金環日食が見えている のですが、当時の計算では食分0.8程度であったようで、頒暦には「日そく八 分」(「日そく」とは日食のこと)と記載されていて、金環とは書かれていま せん。
 また、天保10年の日食は、金環が見えたのは中部地方から関東地方にかけ ての地域で、京都では部分食でした。さらに、この時は太陽が欠けた状態で 昇ってくる日出帯食でした。 そのため、頒暦には「日帯そく」(日帯食)とだけ記載されていました。  江戸時代には2回の金環日食を見ることができましたが、 実際には人々が事前に金環日食であるを意識することはありませんでした。

写真:天保10年伊勢暦の日食記事
8月1日の金環日食の予報記事で、「日帯そく」とは日帯食つまり 日出帯食のことです。本文には、 「日帯そく  うの三刻、六分餘かけなから出。うの六刻、下の方におはる、 東国にてハ深く西国にてハ浅かるべし」とあります。
 意味は、「日帯食  卯の三刻に、太陽が六分あまり欠けながら日の出。 卯の六刻に、最後まで欠けていた下側の方が戻り、欠け終わる。東国では深く欠け、 西国では浅く欠けるだろう」。最大食分は明記されていません。






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3.「金環食」という用語
 「金環日食」は、「金環食」とも呼ばれますが、最近では「金環日食」という 呼び方の方が一般的です。では、「金環食」という名前は、いつごろからあった のでしょうか。

(1)日本の文献
 「日本で見えた金環日食の記録」の項で紹介した『寛政暦書』には、 金環食の名称が登場していますが、この本は1844(弘化元)年に完成した ものです。日本において金環食の名称が確認できる最も古い記録は、渡 辺敏夫氏の『近世日本天文学史』によると、1730(享保15)年6月の金環 食の時のものだそうです(下巻、641ページ)。

(2)中国の文献
 近世以前の日本の天文学は、中国天文学がベースとなっています。そ こで、中国の文献を見てみると、日本よりもさかのぼることが可能です。

@『元史』天文志
 1370年に成立した『元史』天文志にある日食の項には、世祖中統29(1292)年 の金環食の記録として、「二十九年正月甲午朔、日有食之、有物漸侵入日中、 不能既日體如金環。」と記載されています。 現代語に訳すと、「(世祖中統)29年1月1日、日食が起こった。物体が次第 に太陽の中に侵入したが、太陽を隠しきることができずに、太陽は金環のよ うになった。」となるでしょうか。
 筆者が中国歴代の正史にある天文志を管見したところ、現在のところは、 この記事より古い記述は確認できていません。もしかしたら、これが「金環」 という名称の初出文献かも知れませんが確証はなく、詳細は不明です。

A『西洋新法暦書』
 1645年に刊行された中国の暦算書『西洋新法暦書』の中の「交食暦指」にも、 金環食をあらわした名称が数か所見られます。その中で、巻1には、「月在日内。 従中掩蔽。雖至食既。而其四周日光皆見。暦家謂之金環」とあります。現代語に 訳すと、「月が太陽の内側にあって太陽面の中を掩蔽すると、食の最大時でも、 太陽の周囲に光が見える。暦学者は、この状態を金環という。」となります。

B『暦象考成』
 『元史』、『西洋新法暦書』は、ともに「金環」とありますが、「金環食」と までは書かれていません。「金環食」という名称が登場するのは、1724年に成立 した『暦象考成』という本です。同書巻8には、皆既食の説明中の一文として、 「若遇太陰視経小於太陽視経。則四周露光。名為金環食也」とあります。現代語 訳は「もし、たまたま月の視直径が太陽の視直径より小さければ、四周に光があ らわれる。これを名付けて金環食という。」となり、ズバリ「金環食」と書かれ ています。


 以上の様に、現在までの管見で、中国の文献は『元史』まで遡ることができま した。1292年の日食は、NASAの計算でも金環食と算出されていますので、晴れれ ば金環のような太陽が見えたことでしょう。しかし、太陽の光は、金環日食の最 中であってもかなり強く、快晴の時に肉眼で見ると眼を傷めるほどです。そんな 中、望遠鏡による投影法や日食メガネといった有効な観察手段がなかった時代に おいて、金環日食の状態を確認するのは、大変だったことと思います。もしかし たら、金環の最中に雲がかかって、太陽本体の光が弱められ、見やすくなってい たのかもしれません。
いずれにせよ、文献をみる限りにおいては、「金環食」という名称は、中国起源 のように考えられます。



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4.昔の記録をしらべよう
 江戸時代の金環日食の記録や、研究の様子を知りたい時には、 下記の本が便利です。

(1)大崎正次編 『近世日本天文史料』1994年発行、原書房
 江戸時代の天文観測記録などを集めた書籍です。日食、月食、惑星現象、彗星など、 天体現象別に章立てされていますので、調べる際には便利です。 享保15年、天保10年の金環日食の記事も、『寛政暦書』の記述ほか いろいろ掲載されています。

(2)渡辺敏夫著 『近世日本天文学史』下巻、1987年発行、恒星社厚生閣
 近世日本の天文学について網羅した書籍。上下2冊の大著で、この分野の基本文献の一つ。 下巻の第8章が日食と月食に関して述べられた部分です。観測方法をはじめ、いろいろ 書かれていますので、しっかり知りたい時にはご一読を。



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5.余談:日食中の気温変化
 皆既日食では、皆既の最中は気温が少し下がることが知られています。近年で は、日食中の気温変化などの詳細な観測も行われていますが、これはいつ頃から 行われていたのでしょうか。詳しいことはわかりませんが、筆者が見つけたもの で最も古いものは1724年です。
 フランスの天文学者ラランドによると、1724年5月22日にパリで皆既日食に気 温と気圧が測定されていたそうで、皆既の最中でも気圧はほとんど変化がなかっ た一方、気温は少し下がったとの事でした。この時、ラランドは、まだ生まれて はいませんでしたから、彼自身も伝え聞いたか、昔の記録を見たのでしょう。も しかしたら、パリ天文台には、詳しい記録が残っているかもしれませんね。  さて、今回の金環日食での気温はどうでしょうか。測定されてみてはいかがで しょうか。





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