新設:25/Nov./1999

近代天文学のはじまりと大阪




  *** 目   次 ***

1:日本の天文学のはじまり
2:麻田学派の天文学
3:大阪で作られた近代天文学
4:寛政改暦後の麻田学派と幕府天文方
5:幕府天文方と間重富
6:大阪の天文学の再評価

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(注)この文は、大阪市立博物館の特別陳列「受贈記念 羽間文庫  −町人天文学者間重富と大阪−」の図録のために執筆した原稿に、弱冠の修正を加えたものです。




1.日本の天文学のはじまり
 近世以前の日本の天文学は「暦学」と呼ばれ、毎年の太陰太陽暦を作成するために、太陽や月、惑星の位置推算と日月食の予報が主な研究課題であった。我が国で正式に暦日を用いるようになったのは推古12(604)年のことであるが、当初より中国の暦法が用いられていた。江戸初期の貞享2(1685)年、渋川春海(しぶかわ・はるみ:1639〜1715)が作った貞享暦への改暦が行われ、日本人の手になる暦法が生まれた。春海は初代幕府天文方(ばくふてんもんかた:江戸幕府内の天文役人で主に編暦をつかさどった)に命ぜられ、官学としての天文学がスタートした。その後、八代将軍徳川吉宗は西洋天文学に基いた改暦を計画したが、幕府に優秀な人材がなく果たせなかった。その後、宝暦5(1755)年には土御門家の安部泰邦(あべ・やすくに)により宝暦暦(ほうりゃくれき)への改暦が行われたが、欠陥の多い暦法であったため日食予報などにミスがでている。

 この様に、江戸中期には官学としての天文学に大きな発展が見られなかった一方、大阪では麻田剛立らアマチュアによる天文学研究が展開しはじめたのである。


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2.麻田学派の天文学
 18世紀後半、大阪の本町四丁目(今の中央区本町3丁目)に住んでいた麻田剛立(あさだ・ごうりゅう:1734〜1799)は、開業医をする傍らで天文学研究を行っていた。麻田は豊後の杵築藩出身で、本名は綾部妥彰(あやべ・やすあき)。彼は独学で暦学と医学を学び、杵築藩主の侍医をつとめていた。暦学の面では、宝暦13(1762)年9月1日の日食は官暦には記載されていなかったが、麻田は独自の計算により日食が起こる事を予報し見事的中させる程の実力を持っていた。しかし、侍医の仕事が多忙なため天文の研究が出来なくなった事に耐えられず、安永元(1772)年頃遂に脱藩して大阪に隠れ住み、麻田剛立と名乗って研究を行った。

 麻田剛立の優れた研究は大阪でも話題となり、やがて彼のもとには多くの弟子が集まり、やがて「麻田学派」ともいうべき研究グループが形成された。

 ちょうど同じ時期、幕府当局は西洋天文学に基づいた新しい暦を作りたいと考えていたが、天文方にはその実力はなく、思うように計画が進まなかった。そこに白羽の矢が当たったのが麻田学派で、幕府は寛政7(1795)年3月、麻田学派の高弟、高橋至時(たかはし・よしとき:1764〜1804)と間重富(はざま・しげとみ:1756〜1816)を江戸へ招き、寛政の改暦事業に当らせることにした。二人の身分は、高橋が大坂定番同心という下級武士、間が町人で質屋の主人であったから、当時においては大抜擢である。

 高橋は同年11月幕府天文方に昇進し、翌年改暦宣下、その結果完成したのが「寛政暦」(1798年施行)である。これは西洋天文学に基づいて作られた日本最初の暦で、中国の天文書『暦象考成後編』(れきしょうこうせいこうへん)に基づいて太陽と月の運動にケプラーの楕円理論が採用し、麻田剛立創案の消長法(しょうちょうほう)を加味している。この「寛政暦」は、大阪で発達した麻田学派の研究の集大成といえる。


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3.大阪で作られた近代天文学
 では、麻田学派の天文学はそれ以前の研究と比べて、どこが先進的だったのであろうか。これから見ていくことにしよう

3−1:西洋天文学の導入
 江戸時代中期、暦学の教科書として使われていたのは『崇禎暦書』(すうていれきしょ)など中国の天文書であったが、その内容は西洋天文学がベースとなっていた。麻田らはそれらを研究していく中で、西洋では天文学が高度に発展している事に気付き、その吸収に努力する。その後、間重富が当時日本に一、二部しか輸入されていなかった中国の最新書『暦象考成後編』を入手、遂にケプラーの楕円軌道論を理解して国内最高の研究者グループとなったのである。高橋、間らの手による「寛政暦」は、この『暦象考成後編』を基礎として作られている。

 しかし彼らは現状に満足せず、のちには『ラランデ暦書』をはじめとしたオランダから輸入された西洋天文学書を直接翻訳するようになった。


3−2:天文学者のネットワーク作り
 麻田学派の学問の特徴の一つに、天文学者のネットワーク化がある。彼らは、より正確な暦法を作るためには、より多くかつ正確なデータの蓄積が必要であった事を認識していており、日本全国にいる研究者と密接な連絡を取って、たくさんの天体観測データを収集している。大阪の間家にも江戸や、越中、伊勢、安芸、岡山、讃岐などの観測記録が送られているが、彼らはそのデータを考察し、その結果を理論研究にフィードバックさせていた。


3−3:観測技術、精度の向上
 また、彼らは天体観測の技術や精度の向上もに力を注いだ。当時の観測は主に、

(1)二至二分の太陽赤経緯度の観測
(2)日月食および星食の観測
(3)月、惑星の位置観測
(4)保持のための子午線観測
などがあった。

麻田剛立らは天体現象の起こる時刻や天体の高度・方位をはじめ、各種の精密なデータを集めるために、自ら子午線儀(しごせんぎ)、象限儀(しょうげんぎ)、垂揺球儀(すいようきゅうぎ)など多くの観測機器を考案、改良している。特に間重富は優れた技術的才能を発揮しただけでなく、私財を投じて京都の工人を養成し、観測機器製作に当たらせている。これら努力により次々と精密な機器が作られ、彼らは時刻で約1秒、角度では1分という、それ以前に比べ格段に精密なデータを得る事が可能になっている。

 寛政の改暦後は、江戸の幕府天文台には、彼らの創意と工夫に満ちた様々な観測機器が設置され、幕末まで使われた。


3−4.近代的な研究手法
 麻田学派の研究は、天体現象を観測し、それが起こるメカニズムのモデルを仮定し、更なる観測により検証する、という近代天文学と同じ研究手順を踏まえていた。天体観測を定常的に行ないデータを収集・蓄積し、その結果を理論研究にフィードバックしている。

また天文学理論も、西洋からの輸入された知識を研究していた。彼らの研究は、理論と観測とがうまく組み合わされたものだったのである。渋川景佑はのちに「暦学者は数理に明るく、また観測技術にも精通していなければいけない」と書いているが(注1)、その精神は麻田剛立を源としている。



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4.寛政改暦後の麻田学派と幕府天文方
 寛政暦施行の翌年、寛政11(1799)年には麻田剛立が死去した。間重富は大阪に戻って御用観測を行い、その後間家4代にわたり幕末まで活動を続けたが、大阪の暦学研究は寛政期の輝きを取り戻す事はなかった。

 その一方、高橋至時は天文方として江戸に残り、わずか数年間のうちに麻田学派の研究スタイルを幕府内に根づかせた。特に享和期における『ラランデ暦書』の翻訳は、それ以降幕末まで続く天文方の研究方針を決めることになった大きな出来事であった。また、伊能忠敬の全国測量の指導も特筆すべき業績といえよう。高橋至時は文化元(1804)年1月に41才の若さで病死してしまうが、その学風は天文方を継いだ長男景保、天文方渋川家の養子となった次男景佑らに受け継がれ、官学としての暦学研究の活動は天保暦への改暦前後(1844年施行)にピークを迎えることとなる。



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5.幕府天文方と間重富
 さて、ここで町人天文学者として活躍した間重富に目を向けてみよう。彼は、天文学研究に関するまとまった著書などがなく、高橋至時や麻田剛立に比べ地味な存在と考えられているようである。しかし、実際には麻田学派と幕府を結ぶ役割を果たした重要な人物なのである。

 寛政の改暦以前において、間重富は桑名藩主松平忠和ら幕府要人と親交があり、西洋天文学により改暦をしたいという幕府当局の意向をキャッチしていた。また、事前に京都の陰陽頭土御門家に入門し、改暦に関わる情報を収集していたのである。これらにより、改暦にあたっては麻田学派に白羽の矢が当たることをも知っていたのである。このような関係であろうか、寛政7年に幕府が高と間の両名に出府を命じた際、待遇面では間重富の方が上であった。

 また、文化年間における活躍も注目すべきものがある。文化元年に高橋至時が病死した時、後を継いだ長男景保は弱冠二十歳であったため、幕府は間重富に出府を命じて景保の後見役に当たらせている。しかし、実際のところは、単なる後見役として天文学知識の指導に当たっていた程度にはとどまらない。間重富は、高橋家に関わる事柄について内々ではあるが幕府の上役(恐らく若年寄)に意見具申をすることをも許されており、事実上天文方高橋家のトップとしての権限を持っていたのである。また、高橋景保が命じられた世界地図の作成業務(文化7年に『新訂万国全図』として完成)や蘭書の翻訳業務などといった各種の仕事にも、間重富が関与している。特に、蘭書翻訳業務は最初医家に命じられる予定であったところを、重富の意見具申により天文方(高橋家)が担当することになったのである(注2)。これは後の蛮書和解御用の仕事とも関連するの重要な出来事といえよう。

 このように、間重富は政治的な面での活動も活発に行っていた。また、麻田と高橋が亡くなった文化年間以降は、国内最高の天文学者として天文方を指導する任務も負っており、彼が果たした役割は決して小さなものではないといえよう。町人という身分であった彼が、在野の麻田学派の天文学を官学に位置づけるべく努力をするという行動も注目に値する。


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6.大阪の天文学の再評価
 麻田学派の天文学は、寛政の改暦以降幕末までの天文学の主流でありつづけた。しかし、彼らの関心は正確な天体暦を作るに向けられていたため、明治維新に伴う近代化の流れの中では古いものでしかなく、それ故天文方は廃止、彼らの業績は廃棄され、天文学の研究システムも本格的な西洋流のものに改革されることとなった。以来、天文方による知識や観測記録は伝えられず、その後陽の目をみていない。

 しかしながら、彼らの業績は否定されるべきものではない。現代においては、むしろ社会的側面も含め、彼らを様々な角度から考察し、評価すべきだと考える。一例として麻田学派をとりまく人々を見てみよう。麻田剛立の良き理解者であった「懐徳堂」の中井竹山(なかい・ちくざん)・履件(なかい・りけん)兄弟。彼らに良質の望遠鏡を提供した泉州貝塚の眼鏡師岩橋善兵衛(いわはし・ぜんべえ)。間重富との交流の中で多くの情報を提供した桑名藩主松平忠和。大阪を代表する文化人でコレクターの木村蒹葭堂(きむら・けんかどう)。他にも数え上げれば切りがない。これらを見ると、麻田学派が決して突然現れたわけではなく、周囲の雰囲気や当時の社会の流れ等の中から生み出されたことがわかるであろう。



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1:渋川景佑等編『寛政暦書』撰述暦理本末の条。「為暦学者不明於数理不精於候測而能有至焉者不也」

2:文化年間における間重富の出府は、高橋至時の遺言によるものであった。また、出府時に命じられた地図作成や蘭書翻訳の業務は、全て内命によるもので、表立ったものではなかった。


参考文献:


渡辺敏夫:『近世日本天文学史 上・下』1986〜87年 恒星社厚生閣
渡辺敏夫:『近世日本科学史と麻田剛立』 1983年 雄山閣
大分県先哲史料館編:『大分県先哲叢書 麻田剛立資料集』 1999年、大分県教育委員会
渋川景佑等編:『寛政暦書』(国立天文台蔵本)1844年 
日本学士院編:『明治前日本天文学史』(新訂版)1979年 井上書店



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