湯川秀樹が叱られた

 

 

先日、化学実験サークル10周年記念懇親会があり、芝哲夫先生とご一緒する機会があった。その席で「君、湯川先生が八木さんに叱られた話を知っているかい?」と尋ねられた。どうも有名な話らしい。実は知ってはいたが、そんなに有名な話だったとは思ってなかった。

一昨日、帰省の切符を買いに梅田に出たついでに紀伊國屋に寄った。物理の棚に小沼さん(面識はないけれど、以前氏が講演するところを館のすぐ近くの阪大中之島センターで見たことがある)が昭和9年の湯川秀樹の日記を編集したものが出ていた。そこで芝先生の話を思い出し、その本を買って帰った。

話が逸れるが、高校の頃、担任だった物理の先生が朝永の「量子の裁判」の話をされた。興味深かったのでさっそく学校の図書館で探し、みすずから出されている赤茶色の著作集の初版を見つけた。冬休みに読んだような記憶があるが、3年生の頃はそんな余裕がなかったろうから、2年生のことだったのだろうか。おもしろくて、続いて滞独日記なども借りて読んだ。朝永は、湯川の友であり、ライバルであった。滞独日記には、湯川に対する強烈なコンプレックスが綴られ、こんな頭のいい人にも劣等感なんてものがあるものなのだなあ、苦しんだりするものなのだなあとちょっと驚き、親近感を持った。それで、僕は湯川より朝永が好きになった。

さて、湯川の日記の方だが、ざっと目を通したのだがどうしたことか八木に叱られた話は出てこない。ひょっとして昭和8年の話だったのかと思ったが、9年の3月のことらしいので、どうやら日記には書かなかったようだ。ずいぶんと激しい叱責であったようだが、なぜ書かなかったのか。朝永は悶々とした気持ちを日記に書いたが湯川はそういうタイプでななかったということなのだろうか。

阪大の年史にも登場するが、この話は内山龍雄先生が浅田常三郎(敬称を略させてもらったのは、既に歴史上の人なのかなと僕が勝手に思っているだけです。)から聞いて、「適塾」に書いたのがどうも文章としては最初らしい。それで、芝先生もこの話は良くご存知で僕に話してくれたのだと思う。

湯川の研究室がどこにあったかわからないが、毎日その場所から50メートルと離れてない場所で仕事していることになる。湯川が叱られたり中間子論をタイプした所と毎日の仕事場は空間的にはさほど隔たりはないが、時空的にはずいぶんと隔たれている(そして自分のオツムの内容はさらに隔たっている)。ところで今日はクリスマスイブイブ。件の小沼さんの出された本は、奥付けを見ると第一刷り12月25日とあるから末来からの本になる。