小野的サイエンスショー考察論  〜サイエンスショーについて考える〜

サイエンスショーとは、いまや全国の科学館、教育イベント、学校等あちこちで行われている「科学」の「実験」を「見せる」ものである。
理工系の科学館でサイエンスショーや実験ショーを行っていないところは、あまりないだろう。大きなところでは、国立科学博物館で実施していないようだが。
以下は、小野が経験から得た独断に基づきサイエンスショーについて考えたことである。先に行ってしまえば、サイエンスショーとは何をすべきものかという正解はなく、目的とするものが変化すれば、それを達成する手段も変わって来るものであるから、設定した目的の数だけサイエンスショーの正解があるというところだろう。まあ、あまり肩に力を入れて述べるようなことでもないが、とりあえず自分がサイエンスショーを実施するときには、どういうことに留意しているかを記した個人的な見解、いやモノローグである。


いつどこで始まったのか
サイエンスショーのようなものを国内ではいつ誰が始めたのかは、まだ分からないが(今後、小野調査予定)、世界的に見れば、1799年にランフォードが設立したロンドンの王立研究所(≠王立協会)で行われていた講演会がその発端になっているかもしれない。もちろんそれ以前にも、科学の実験を公開したゲーリケやラボアジェ等様々な先人がいるが、継続的に実施したとなると、この講演会あたりに落ち着くだろう。この講演会は、当時の最先端の科学を市民に解説しており、チケットの入手も困難なときもあり、H.デービーの講演会では、俗な言い方になるが儲けが出るほどだったという。この講演会は、主に富族層を対象としていたものであるが、この講演会によって、M.ファラデーが科学の世界に本格的に身を投じることになったのは有名な話である。

そして、この王立研究所で行っていた講演会をさらに発展させて、よりサイエンスショーの起源に近くなるものは、このファラデーが、1825年からクリスマス時期に子供たちを相手に実験を行ったクリスマス・レクチャーであろうと考えられる。これは、現在でもイギリスで続けて行われているもので、筆者も日本で行われた時に一度参加した事がある。

特にクリスマスレクチャーは、青少年向けに実験をし、その中身を丁寧に解説するものであったが、その精神は今でも受け継がれているようで、筆者が見たクリスマスレクチャーも、本当に基礎の基礎に当たるような実験から行われていた。科学の中身を、とても丁寧に実験を通して解説している。そういったあたりをみてみると、クリスマスレクチャーが、現在の各所で行われているサイエンスショーの起源といえるものはここに落ち着くであろうと思える。なお、ファラデーの行ったクリスマスレクチャー「ロウソクの科学」は岩波文庫や角川文庫から出版されている。

現在、大阪市立科学館で行っているサイエンスショーは、基本的に万人向けである。子どもだけ相手にしているとか、大人しか対象にしていないということはない。もちろん、展示場の一角で行っているため、誰もが見学できるからでもあるが。
ということは、大阪市立科学館のサイエンスショーは、やはりファラデーが行っていた金曜講演会とクリスマスレクチャーが融合したものとなるだろうか。
うちのご先祖は、源氏とか平氏だというのと同じで、これはちょっと無理なこじつけ?


現在、科学館などで行われるサイエンスショーの見学者に子どもが多いのは、学校団体の見学があるからでもあるが、当館では土日のショーでは、家族連れや、カップルも多く、大人の見学者も無視できない数に上る。平日の午後にいたっては、サラリーマンと思しき方々や、視察の先生方、高齢の方々など大人しかいない中で実験をする場合も多い。

こうなると、子供だましの実験や解説では、20分間つなぎとめておくのは難しい。当館でのサイエンスショーの場合は、実験内容が同じでも、解説の中身が変わってくる。大人の人の鑑賞にも堪えられるようにスタッフは演出などに工夫を凝らしている。大人のお客さんの話でも「子供だましかと思ったが、結構面白かった」などといわれることがある。もちろんショーの最中に、堂々と寝られることもあるが。
おとうさん、お願いだから、そこで寝ないでくださいよ…。


■サイエンスショーとは何か
サイエンスショーとは何だろう。誰もそんなことを定義しようとは思わないだろうが、簡単に言えば、
  1)科学に関するいろいろな事象を、実験を見せながら解説する
  2)ある自然科学の概念を伝えるための手助けとして実験を見せ、見学者にその概念を伝えたり深めてもらう
といったことを行うものである。そしてそこには必ず、興味を持ってもらうような演出を施さなければならない。

学校の理科の授業においても、熱心な先生方は、時間を割いて実験を行っている。実験のデモンストレーションは、制約の多い授業の中で、科学的現象を生徒の目の前で見せることで、そこから得られる様々な情報を拾える可能性を秘めており、その得た情報を理論に組み込んでいける。また、その逆のパターンで理屈を確認するために実験を行い、知識の伝達を行う手助けとなる。

授業の進め方によっては、帰納法的な手法で実験を行うこともあるし、演繹的な方法で実験を行っていくなど手法の違いもあるが、いずれにせよ、科学的知識を深めてもらう、気づいてもらう、はたまた観察眼を養うといったことに有効である。

ただ、昨今の派手な演示実験は、生徒たちの授業に対する興味関心を喚起するという、ある意味デモ実験の副次的な要素が、先に述べた主要素と置き換わっている場合も多く、そこに批判が生じることもある。
筆者は、それでも授業におけるデモ実験は有効なものであると思うのである。

当館のような科学館においては、制約というと安全性や経済的なものがメインである。指導要領などの制約を受けることもないから、サイエンスショーはある程度自由に実験を行えるといって良い。
ただし、ショーと謳っているからには、見世物にならなければいけないのである。見世物というと、どうしても言葉から受ける印象が悪くなってしまうが、実際、見世物として成立していないサイエンスショーは見るに耐えないものである。

それから、サイエンスショーは、その場だけで完結するものでなく、そのショーを見た見学者が、そこから何か新しい知識を得るきっかけとしたり、新たなものの見方・考え方をつかんでもらえるよう、後々まで見学者に影響を及ぼすようなものでないといけないであろうと思うのである。理想としては、ショーで見た実験の内容を補完する展示があり、そこでショーの見学者が自分で再確認できれば、より印象付けられる。

さて、ショーを集中してみてもらうためには、あっと驚く実験や演出などエンタテイメント性を加味する必要がある。
ほとんどのお客様が、余暇を過ごす場のひとつとして訪れるこの科学館で、どれだけの人が「単なる実験とその考察」など見たがるだろう。もちろん、科学的な知識を得るためにこられる熱心な方々もいらっしゃることは、頭の片隅においてあるけれども。

サイエンスショーでは、「科学」の「実験」を「楽しく」「見せる」もので、来館者に後々までなんらかの影響を及ぼせるようにしたいと思って実験をしている。



サイエンスショーは色物?
ならば、サイエンスショーはどの程度のエンタテイメント性を持たせたらいいのだろう。化学反応の実験をするわけではないので、どの程度などという定量的なことは、ここでは述べられないというのが正直なところである。

実験を淡々と行い、その実験事実を精緻に解説していく…。ありえない、科学館のサイエンスショーでこのようなことはありえない。やはりエンタテイメント性は必要である。今をときめく現代美術のアーティスト村上隆氏が、独りよがりな思いで作品を作るような作家にならないようにということで、「エンターテイメント性がなければ、誰も見てくれない。誰も見なければ話にもならない。」と語っていたことがある。

そう、見てもらわなければ勝負にはならないのである。お客さんに土俵に上がってもらい、彼らの興味の琴線にふれなければならないのである。
そのためには、時に体を張って実験を行っているときもある。←ちょっとやりすぎ?

もちろんこの、エンタテイメントという言葉の定義もはっきりとしたものではないから、人それぞれの意味を持ちそれぞれの文脈の中で用いられることになり、同じ言葉を使っていても意味が通じないということもあろう。ならば、ここでは以下のように定義してみよう。

エンタテイメント=ワクワクすること、次は何が起こるのだろうと期待すること、面白いこと、ウェットに富んだユーモア、間合い、洒落…

いやいや、自分の中でも上手く説明をつけることができなくなってきた。人が面白いと思うには、その見たことに関して何らかの感動や期待を持つからだろう。ということは、理屈よりも感情に働きかけられた方が強く興味を引くということだろうか。いや、理屈の通りにモノが進んでいくというのも、また楽しからずや。


閑話休題


ここで、確認しておきたいのは、サイエンスショーは実験がメインということである。あくまでも、演出というのは、実験をより印象的に見せるためのスパイスだいうことである。
そこに力が入りすぎて、ややもするとサイエンスショーは「色物」と見られることも多い。すると、実験はするものの「あー、面白かった」だけで終わってしまう、単なる暇つぶしの見世物ということで終わってしまう。

サイエンスショーの実験で、個人的にとても気に入っているのは、炎色反応の実験である。最初の頃は、学校で行う実験のように、白金線に各種金属塩の溶液を浸し、トーチの炎で色を確認したり、時計皿で各種金属を溶かしたアルコールを燃やしたりしていたのだが、面白くないんですよね。
「あ、そう、だから何」、いわゆる博物館業界の言葉で、「So what?」というお客さんの顔が多かったのである。実演している身としても、こんな定性実験ではなにも伝えられん、と思っていたのも事実である


今から遡ること10年以上前、ある日、ふと、霧吹きが目に入り、これでアルコールを入れたらアルコールの霧ができるよなぁ、ということと、007の古い映画でジェームス・ボンドがスプレー缶に火をつけて火炎放射?のようなことをやっていたのを思い出して、霧吹きで炎色反応ができないかと思ったのでした。実験するのは、もちろん火を使うので怖かったのだが、実験してみると大きな炎に見事色づけすることができ、大成功。
その後、化学実験のサイエンスショーでは、これは定番実験のひとつになったのである。この実験、よく調べてみると、先人で霧吹きを使った炎色反応をしていた人はすでにいたのであるが。ここの科学館のように大胆にやるのは、非常に珍しいと思う。

この、霧吹きを使った炎色反応の実験を、担当した新しいサイエンスショーに取り入れたときには、お客さんにも大いに喜んでもらい、印象付けることができたのある。大きな炎が出るということが強烈なインパクトを与えることができる。その炎の色が赤や緑、そして薄紫といくつもの色が出ることの驚き、そして、知らなかった「化学」の中身が身近な「花火」に応用されていることの親近感。

強いインパクトと親近感。

これらがサイエンスショーの見学者の中で一緒になった時、恐らく強い印象が刻まれるのだろう。大人であれば以前どこかで聞いたことがあるであろう、炎色反応のことを思い出し、子供にサイエンスを語ることもできるだろうし、花火の色についての納得もできるであろう。これが、先に述べた演出もくそもない実験であれば、何の印象も残さないのに。
きっと、花火を見たときに、ショーの内容を思い出してくれるのは必然となるはずである。

この差は、非常に大きい。科学的な知見の再発見または確認、認識、まあ、言葉はいろいろあれど、25分のサイエンスショーの中で、何か1つでも知識をもって帰ってもらいたいと思い実験を演示しているものにとっては、やはりスパイスになる演出が必要なのである。
このスパイスが×5、×10とどこかのカレー屋さんの辛さのように過剰になっていけば、味もなくなってただ辛さのみしか、わからない状態になり、科学的な中身が伝わらなくなってしまうので、要注意である。

ようは、演出のないサイエンスショーはないけれども、その演出も程々にね、というありきたりの非常につまらない結論である。



途中、以下続く
2005.9.18更新
2006.3.26一部改編
2006.9.3加筆、一部訂正



■身近な実験?あっと驚く実験?



■何を目指す



■あるべき論


■今後の展望