月刊うちゅう 2005 Jun Vol.22 No.3

湯川秀樹の功績と湯川研究室の思いで

菅野礼司

日本で最初のノーベル受賞者
 湯川秀樹は、1948年に日本で最初にノーベル賞を受賞した物理学者です。湯川博士は、原子核を堅く結びつけている力(核力)を説明する「中間子論」を、1935年に発表しました。その湯川中間子論に対して、ノーベル物理学賞が与えられたのです。
 湯川博士は大阪大学から京都大学物理教室の教授となりましたが、その研究業績が認められて、アメリカのプリンストン高等研究所に客員教授として招かれ渡米しました。受賞当時は、コロンビア大学の教授を兼任していました。この頃、日本は敗戦後(第二次世界大戦)の苦しい時代でしたが、湯川博士のノーベル賞受賞のニュースが伝えられると、日本中はその栄誉を讃えると同時に、日本の名誉であるといって、喜びで沸き返りました。
中間子論誕生の地
 中之島のこの市立科学館のあるところには、以前、大阪大学理学部がありました。その物理教室の講師のころ、湯川博士はその「中間子論」を完成し、発表したのです。ですから、この科学館は中間子論誕生の名誉ある場所です。
 その湯川理論について簡単に解説し、また、アメリカから帰国後、基礎物理学研究所での研究や、湯川研究室の様子を紹介することにします。

湯川の核力理論:中間子論
(1)核力とは

 原子は、原子核とその周りを取り巻く電子とでできています。その原子核は正電荷を帯びた陽子と電荷のない中性子が堅く結合したものです。陽子、中性子、電子などは、物質を構成している最小の粒子と思われ、素粒子と呼ばれます。1930年代では、素粒子はこれら3種と中性微子(ニュートリーノ)だけが知られていました。現在では数百種の素粒子が発見されています。
 原子核の研究が進み、原子核の構造と性質が次第に明らかになっていくと、一つの大きな謎が浮かび上がってきたのです。それは原子核を結合している力「核力」でした。陽子と中性子を結びつけて原子核をつくっている核力は大変強い力です。なぜならば、陽子は互いに電気反発力が働きますから、その反発力よりも遥かに強い力で結合しないと、安定な原子核はできないからです。ところが、どのようにして強い核力が生ずるのか、その当時は全く謎でした。その核力の謎を解きあかしたのが湯川中間子論です。
 陽子と中性子は、電気のあるなしの違いはありますが、それ以外ではよく似た性質を持っています。核力についても、陽子と中性子は同じ性質であることも判っていました。すなわち、陽子同士、中性子同士、そして陽子と中性子の間に働く力はみな同じなのです。



原子と原子核


(2)核力のもとは中間子 
 素粒子間の力は、素粒子の間で粒子を交換することにより生ずることがわかっていました。その理論を「場の量子論」といいます。例えば、陽子と電子の間に働く電気力は、光子(光の粒子)を互いに交換することにより生じます。したがって、核力も陽子や中性子が互いに何か粒子をやり取りしているのだろうと予想されました。ところが、その媒介となるものが当時知られていた素粒子の中にはなかったのです。色々な仮説が試みられましたが巧くいきませんでした。通常の考えでは駄目だったのです。
 湯川博士は、何度となく試行錯誤を繰り返した末に、核力のもとは「中間子」というまだ未知の素粒子を媒介にして生ずるというアイデアに到達しました。核力の働く距離は原子核の大きさ程度のごく短い距離なので、その未知の粒子の質量は電子の約200倍であることを理論的に予想しました。その質量が電子と陽子・中性子の中間なので「中間子」と名付けたのです。


核子が中間子を交換する


(3)中間子の発見
 湯川理論の正しさを検証するには、予言した「中間子」の存在を実験で確かめる必要があります。地球には、宇宙線という高エネルギーの粒子やガンマー線が宇宙の彼方から絶えず飛込んできます。その宇宙線が大気の窒素や酸素の原子核に衝突すると、多くの粒子が発生します。1937年にアンダーソンとネッダーマイヤーが、その宇宙線現象の中に質量が電子の約200倍の新粒子を発見しました。これこそ湯川の中間子だということで、湯川理論は一躍脚光を浴び世界中から注目されました。
 ところが、その中間子は強い核力を生むことはできないことが明らかになり、そのために、湯川の核力理論は暗唱に乗り上げたのです。しかし、1942年に坂田−井上の2中間子論が出てその謎が解けました。宇宙線の衝突でまずパイ中間子ができ、それがすぐに崩壊して軽いミュー中間子ができるというのです。宇宙線で発見された中間子は、子どものミュー中間子であり、核力の中間子は親のパイ中間子だというわけです。その後、二種類の中間子が発見され、核力はパイ中間子を媒介にして生ずることが確認されました。


宇宙線による中間子の発生:2中間子論


 戦後、大型加速器がつくられ、パイ中間子が人工的にも自由につくられるようになりました。このように、湯川による中間子の予言は、その後の多くの素粒子の発見につながり、素粒子論の幕開けともなったわけです。

帰国後
 湯川秀樹教授は1953年に、大歓迎のうちに帰国しました。湯川博士のノーベル賞受賞を記念して、京都大学に基礎物理学研究所が設立されたので、その研究所の所長と京都大学理学部物理教室との兼任教授となりました。
物理学科の湯川研究室
 ノーベル賞効果で、素粒子論ブームとなり、素粒子理論を研究したいという学生が、全国の大学の物理学科に押し掛けました。まして、湯川研究室は溢れるばかりの学生、大学院生や研究生を抱えていました。 湯川先生が帰国された年、私は、留守中の湯川研究室に所属する4回生でした。この前後の年には、ほとんど全員の学生が大学院への進学を希望したので、この数年間は毎年、定員を遥かにオーバーした院生が湯川研究室にいました。そのために、研究室の部屋が足りず、週一回のコロキューム(新着雑誌などの論文を巡って議論する研究会)は、廊下に黒板と机を並べて(常設状態)やりました。そのうち、院生の机を置く場所もなくなり、コロキュームだけでなく、衝立やカーテンで廊下の隅を仕切り、机を並べて居室にするという状態が何年も続きました。
 そのような中で、コロキュームの合間には、興味や関心が同じ者同士が数人づつグループを作って、原書や論文を読み合う勉強会を続けていました。
 湯川先生の講義は、基礎物理学研究所で時々ありましたが、研究室の研究方針については、ほとんど口を挟みませんでした。「研究については、私は自由放任主義です」と先生は口癖のように言っておられました。ですから、研究室の雰囲気は全く自由でした。教員も院生もそれぞれ我が道を行くという状態で、みな活発に好きな研究を続けていました。湯川先生は、独自性のある創造的研究ならば、素粒子論でなくとも、何をやっても怒りませんでした。むしろそれを奨励することもありました。しかし、素粒子論の研究であっても、人真似や流行を追うような独創性のない研究に対しては不機嫌でした。
 自らやる気と能力のある人間の集まりには、この方法が一番よいのかも知れません。したがって、湯川研究室からは、素粒子論研究以外の分野でも異色の人たちが多数輩出しました。その中には、例えば、星の進化で有名な林忠四郎(当時助教授)を初め、宇宙論、数理科学、物性理論、生物物理、科学史などの分野で世界的に有名な人たちが多数おります。
基礎物理学研究所


基礎物理学研究所

 湯川教授のノーベル賞受賞を記念して設立された基礎物理学研究所は、理学部の東側にある農学部植物園の一画にあります。この研究所は、創立当初、素粒子理論と原子核理論の二部門のみの、こじんまりとしたものでした。しかし、日本で最初の「全国共同利用研究所」として創立されたので、全国の大学から絶えず研究者が集まり、研究交流が盛んに行われていました。まず、1954年に中間子論を中心テーマとする国際会議が開かれました。これを契機に、基礎物理研究所は素粒子論研究の日本におけるメッカになったのです。
 全国からきた研究者は、この研究所に宿泊して(後には、研究者が増え手狭になったので、近くの北白川に研究所の宿舎ができました)四六時中議論できる状態でしたので、新進気鋭の研究者が、この研究所で朝から晩まで切磋琢磨していました。また、特定のテーマで数日間研究会が開かれ、朝永振一郎、坂田昌一など有名な先生を初め、大学院生まで全国から集まった研究者が、熱心に研究発表と討論を重ねたのです。言うまでもなく、湯川先生もこの研究会にしばしば参加しました。
 この頃、湯川先生は「非局所場理論」や「素領域の理論」という新理論に取り組んでいました。いずれも素粒子モデルの理論ですが、かなり専門的になるので説明は省略します。先生は漢文の素養があり、古代中国哲学の老荘思想にも造詣が深かったので、この理論には中国の自然観が反映されています。
 基礎物理学研究所の研究会によって、若手研究者や大学院生は大変啓発されたものです。そして、時には諸外国から有名な教授が来て、講演や議論をしました。当時の和気藹々とし、しかも熱気ある研究所の状況が懐かしく思い出されます。
 今ではこの研究所は物性理論や宇宙論を加えて、部門数も研究所の規模も大きくなり、研究者の数も非常に多くなっています。それゆえ、研究会の様子も学会のようになって昔の面影は薄くなりました。 
 もう一つ素晴らしいことがありました。それは基礎物理学研究所の運営と素粒子論学会の組織でした。全国の素粒子論と原子核の研究者(教授から大学院生まで)は「素粒子論グループ」という集まりを組織して、素粒子・原子核の研究に関する運営すべてを、このグループで決めて実行したことです。基礎物理研究所の運営方針も、素粒子論グループのメンバーの投票によって、全国から互選された運営委員会(湯川教授など一部は常任)と研究部員会(部員には大学院生も入る)の議論で決められます。それゆえ、学会や研究所の運営は非常に民主的であって、湯川先生や有名教授が権威を笠に我意を通すようなことはなかったのです。一部ボス教授の権勢でことが決められる他の学会の様子を聞くと、素粒子論グループは本当に民主的で、私たち若手には恵まれた環境でした。このような組織をつくり、その民主的運営を認めた湯川教授や先輩たちの偉大さに、学問ばかりでなく人間性にも敬服しました。


湯川記念室

世界平和を願って
 湯川秀樹教授は物理学での功績のみでなく、平和運動の面でも亡くなるまで活躍を続けました。プリンストン研究所に滞在しているとき、世界平和と原水爆廃止についてアインシュタインとの深い交流があります。アインシュタインはナチス・ドイツが先に原子爆弾を製造することを恐れて、アメリカのルーズベルト大統領に原子爆弾の開発製造を提案したことを、後に大変後悔していました。日本に原爆が落とされたこともあり、親日派のアインシュタインは、湯川教授にはこの問題について特別親しく語られたそうです。原水爆開発競争が激しくなり、人類絶滅の危機を招くような情勢を憂えて、イギリスの哲学者ラッセルとアインシュタインは協同して、1955年に核兵器廃絶を訴える「ラッセル−アインシュタイン宣言」をだしました。この宣言の発表に際して、湯川教授はその協同署名者になりました。この宣言は、世界の科学者を初め、多くの人たちの参加する、原水爆廃絶運動に発展しました。 
 帰国後は、世界連邦世界協会の会長を務めるなど、幅広く平和運動にたずさわりました。先生の亡き後は、その意志を引き継いでスミ夫人がその運動を続けています。