月刊うちゅう 2005 Vol.22 No.10

新粒子の命名「メソトロン」

斎藤吉彦

大阪市立科学館

 今回は、大物理学者の師弟関係にまつわる裏話です。P.A.ミリカン(1868-1953)は電気素量と光電効果の研究で1923年にノーベル賞を受賞したアメリカの物理学者です。C.D.アンダーソン(1905-91)は学生時代からミリカンの下で研究を続け、1932年に陽電子を発見、1936年にノーベル賞を受賞しました。この2人の逸話です。
 ミリカンは学会誌に次のようなことを書きました1。「ボーア教授がイギリスでの講演で、『今回新しく発見された粒子の名は‘ユーコン’がよい。』と発表した。しかし、新粒子の発見者であるアンダーソンたちは ‘メソトロン’が一番と提案している。なぜなら、新粒子の質量が電子と陽子の中間であり、‘メソ’は中間を意味するから。この事をボーア教授に手紙で知らせたところ、たった今、次のような返事を受け取った。『以下のことを貴方にお知らせでき、嬉しく存じます。こちらコペンハーゲンでは、宇宙線に関する会議の真っ只中です。出席者はオージェ、ブラケット、フェルミ、ハイゼンベルグ、ロッシで、みんながアンダーソンの提案に大賛成です。』」ボーア(1885〜1962)は量子力学の父と呼ばれる人で、アインシュタインが論敵とした20世紀を代表する大物理学者です。また、会議の出席者もそうそうたる顔ぶれで、フェルミやハイゼンベルグはノーベル賞受賞者です。 ‘メソトロン’という命名は、世界を代表する大物理学者たちからお墨付きをいただいたのです。
 1937年、アンダーソンは質量が電子と陽子の間にある新粒子を発見しました。これは、現在ではミューオンと呼ばれる素粒子で、絶えず地上に降り注いでいる宇宙線です。科学館でもその様子を見ることができます。


4階「宇宙線を見よう」のスパークテェンバー。ミューオンの飛跡を放電で見る装置。福井・宮本による発明で、これも科学館の建つ地、旧阪大・理学部で誕生。


 ミューオンの質量は、湯川秀樹によって存在が予言されていた中間子の質量と同程度なので、当初はミューオンが湯川の中間子と考えられた時期がありました。それで、ボーアは湯川の‘ユカ’をとって‘ユーコン’と名づけようとしたのでしょう。湯川が予言した粒子は1947年に発見され、湯川はその翌年にノーベル賞を受賞しました。今では、この粒子はパイオンとかパイ中間子と呼ばれています。湯川は、陽子や中性子で原子核を作るために必要な糊として、中間子の存在を予言しました。1934年、大阪大学の講師をしていたときのことで、科学館はその大阪大学の跡地に建っているのです。この由緒ある地で当時のロマンに浸るというのはいかがでしょうか。話がわき道にそれてしまいました。本題に戻りましょう。「アンダーソンは新粒子の命名として‘メソトロン’を提案している。」とミリカンが学会誌に発表したのでした。ところが、アンダーソンの手記2によると事実はかなり異なるようです。
 アンダーソンは次のように書いています。「ミリカンの留守中に小論文をNature誌に投稿し、そこで‘メソトン’という名を提案した。帰ってきたミリカンが、それを聞くやいなや直ちに反対した。『エレクトロン(電子)やニュートロン(中性子)というのだから‘ロン’にすべきだ、メソトロンだ!』『プロトン(陽子)というのだから‘トン’がよい。』と反論するも、結局r(ロ)の一文字をNature誌に電報を送ることになった。幸か不幸か原稿の締め切りに間に合って、‘メソトロン’という言葉の入った論文が発表されてしまった。この名は好きになれなかったし、私の仲間もみんな同じ気持ちだった。」別のエピソードとして、次のようなことも書いています。「ミリカンは宇宙線の起源として原子重合仮説を信じていた。この説によると、宇宙線のエネルギーは10eVを超えることはない。私たちはこの説と矛盾するエネルギーの宇宙線を発見したのだ。しかし、この事実をミリカンが納得するまでが大変であった。ミリカンは拷問的な質問を浴びせることもあった。彼の精神的運動量は無限大に近かったようだ。何度も議論を繰り返して、やっとこのことで、この宇宙線の存在を認めた。」
 アンダーソンは、ミリカンに対する感謝や尊敬の念を表明した上で、このような行き違いは些細なことと述べています。アンダーソンは既にノーベル賞を受賞した大物理学者でした。それでも、ミリカン先生はアンダーソンにとって、まだまだ大先生だったのでしょうか。当時、ミリカンが70才、アンダーソンは33才でした。大発見の裏に隠れた人間模様を垣間見るようです。

学芸員:斎藤吉彦

1 R. A. Millikan:Phys. Rev. 55, 105 (1939)
2 「素粒子物理学の誕生」講談社(1986)