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大阪市立科学館研究報告 第14号 2004年
巨大分子模型を利用する分子概念の認識にむけた調査研究および展示化
岳川有紀子
大阪市立科学館 学芸課
概要
化学(科学)を学び理解するうえで大切な概念のひとつに粒子論(原子・分子の世界)がある。この概念は、学習指導要領によると中学校で学習する内容として挙げられている。科学館という生涯学習の場において、学校教育とは異なったスタイルで粒子論を学ぶ方法として、約20億倍という巨大な分子模型を活用する方法について、調査および展示化の検討を行ったので報告する。
1.はじめに
私たちが生活する環境のなかには、数え切れない種類の物質が存在している。それらの物質が100あまりの元素の組み合わせによって成り立っているということは、非常に興味深いことである。
ところが、子どもを含む一般市民にとっては、物質を単に「もの」として扱うのが普通であって、物質の科学や分子構造などを意識することはほとんどないようである*)。 さらに、物質を構成する基本単位である分子や原子については、決して肉眼で実態を見ることができないこともあって、想像することも、概念を理解して受け入れることも容易ではないことは、容易に想像できる。
このように難解な粒子論、分子・原子の概念を、こどもを含む一般市民にイメージさせるために、巨大化した立体模型の利用は有効なスタイルと期待できる。学校とは異なり、様々な年代のあらゆる市民が訪れ、一度あたりの学習(滞在)時間が短いという特徴をもつ科学館という施設においては、見学者にとっていかに印象的な展示物を作ることができるかということが、その後の見学者の学習への影響力となる。そのためには、動く(動かせる)、触ることができる、大きな現象が起こる、数(圧倒させるほどたくさんの資料で)などいくつかの工夫が考えられるが、巨大そして立体にすることも注目させる条件のひとつといえ、さらに触ることができれば、より印象も強くなると考えられる。このようななかで、「粒子論の認識」の習得について調査を行い、巨大な分子模型を製作し展示化の検討を行った。
*)2002年に大阪市立科学館において分子概念について調査したところ、学校教育を修了した大人でも記憶が曖昧であったり、難しいという拒否反応が見られた。子どもについては、学校で教育を受けていないこともあって、原子・分子という言葉を知らないという場合がほとんどであった1)。
2.学校での分子概念
現在の学習指導要領をみると、原子分子については中学校で初めて学習することになる。学習指導要領の該当部分を以下に抜粋する。
【中学校学習指導要領】(平成10年12月告示、15年12月一部改正)
第2章 各教科
第4節 理科
第2 各分野の目標及び内容[第1分野]
2 内容
(4) 化学変化と原子,分子
ア 物質の成り立ち
(イ) 物質は原子や分子からできていることを理解し,原子は記号で表されることを知る こと。
イ 化学変化と物質の質量
(ア) 2種類の物質を化合させる実験を行い,反応前とは異なる物質が生成することを見いだすとともに,化学変化は原子や分子のモデルで説明できること,化合物の組成は化学式で表されること及び化学反応は化学反応式で表されることを理解すること。
また高等学校では、以下のような取扱いとなる。
【高等学校学習指導要領(平成11年3月告示、14年5月、15年4月、15年12月 一部改正)】
第5節 理科
第2款 各科目
第1 理科基礎
2 内容
(2) 自然の探究と科学の発展
ア 物質の成り立ち
(ア) 原子,分子の探究
第2 理科総合A
2 内容
(3) 物質と人間生活
ア 物質の構成と変化
(ア) 物質の構成単位
原子,分子,イオンとその結合についての基礎を理解させる。
(イ) 物質の変化
物質の状態変化及び化学変化における原子,分子,イオンの状態をエネルギーと関連させて理解させる。
第5 物理
2 内容
(3) 物質と原子
ア 原子,分子の運動
(ア) 物質の三態
(イ) 分子の運動と圧力
イ 原子,電子と物質の性質
(ア) 原子と電子
(4) 原子と原子核
ア 原子の構造
(ア) 粒子性と波動性
(イ) 量子論と原子の構造
第6 化学
2 内容
(1) 物質の構成
ア 物質と人間生活
(ア) 化学とその役割
(イ) 物質の探究
イ 物質の構成粒子
(ア) 原子,分子,イオン
以上のように、中学校からはじまる粒子論(原子分子概念)の認識であるが、学校教育においては継続的にこの概念が登場するだけでなく、この概念を踏まえて各分野の理解を深めていくものであることが学習指導要領からも改めてわかる。また中学校および高校(理科総合)で学習するとされているということから、粒子論(原子分子の概念)は、科学を専門ではなく教養という意味においても、知っていなければならない基本的な知識と言える。
3.学習指導要領以外での粒子論の学習(仮説実験授業)2)
学習指導要領に則った学習以外でも、粒子論(原子分子論の概念)について学習する機会を設けている場合がある。その代表的なものに、仮説実験授業「もしも原子が見えたなら」がある。
仮説実験授業は、板倉聖宣氏によって、「科学のもっとも基本的な概念と原理的な法則」を教えることを目的に1963年に提唱されたものである。この授業を一言で説明することは難しいと板倉氏本人も著書の中で書いているが、生徒一人一人に予想仮説をたてさせてから実験によって検証させ、一連の授業の最後の段階では、すべての生徒の仮説を法則・理論にまで高めるように展開する授業である。仮説実験授業には、原子分子の概念の認識を目標とした「もしも原子が見えたなら」以外にも、<ものとその重さ><ばねと力><結晶><三態変化><燃焼><電池と回路><花と実><生物と細胞><背骨のある動物たち><禁酒法と民主主義><お金と社会><ゴミと環境><食べ物とウンコ><広さと面積>などといったテーマ(授業書)がある。
この授業の対象学年は特に定められてはいないようで、実際に総合学習の時間などで「もしも原子が見えたなら」を取り入れている先生の話では、小学校中〜高学年に行うことが多いそうである。この授業を受けた児童については、「物質を構成する原子という粒を充分認識できている」と実感できるとの報告があり、また、授業の中で1億倍の分子模型を同時に活用すると、イメージ豊かに原子や分子を創造できるようになる、という報告もある。
なかには小学校1年生を対象に「もしも原子が見えたなら」の仮説実験授業を行った際の記録が、書籍として出版されている3)。
以上のように学ぶ粒子論(原子分子論)であるが、これらの授業(仮説実験授業を含む)での学習と、展示物として学習する粒子論の方法には、次に挙げる2点の異なる点がある。
(1)授業では数時間という時間をかけること。これに対して通常展示物では、見学者は1展示物あたり数分という時間のかけ方である。ただし展示物では、見学者が自分のペースで学習できること、何度か来館し繰り返し学ぶことができる。
(2)授業では教員と生徒、生徒と生徒のリアルタイムの相互作用(質問、解説、感動など)が存在する。これに対して通常展示物は"もの"であり、ほとんどの場合説明するスタッフは存在していない(説明は大方パネルなどを用いている)。ただし、複数の関連展示物や資料の活用によって「展示物で展示物を説明する」という状況を作りだすことも可能であり、また学芸員や引率の教員などによるギャラリートークなどによって、実際の現象や資料などをふんだんに利用した解説を行うことも可能となる。
4.大阪市立科学館での調査
当館でも、2003年5月に、小学校高学年から大人の方を対象に、原子分子に関する基礎知識調査を行った4)。大人に関しては、96%が原子・分子という言葉を聞いたことがあり、そのうち原子・分子のおおよその説明ができたのは50%であった。子どもに関しては40%が聞いたことがあり、説明できたのはそのうち42%であった。
分子をイメージすることについては、分子模型を利用しながら酢のにおいを嗅ぐ実験で調査を行った。多くの大人の場合は、「匂う」という現象に、「分子が粘膜に飛んできている」という類推ができていた。子どもの場合この例は多くはなかったが、鼻に指を入れて「鼻の中についた粒(分子)を取りたい」という反応や、「きもちわるい」と言う反応が観察できた。
5.科学館での粒子論の学習の例4)
科学を学習する上で、重要な概念である粒子論であるが、科学館のような生涯学習施設で展示物として扱っている施設は調査した範囲では存在していない。それどころか、「化学」という分野を展示として実施している科学館施設は国内において非常に少ないのが現状である5)。

写真1.1億倍のDNA分子模型(10メートル分):青森県立園芸高校科学部製作・寄贈
6.巨大分子模型の製作および展示化
このような調査の結果を踏まえて、インパクトがあり、分子のイメージを膨らませやすい巨大な分子模型を製作し、効果的な学習ができる展示手法を検討した。「巨大」の上限については、先に展示化を検討するため、1展示物として成立する程度の大きさ(あるいは小さすぎないこと)、限られた予算の中でできるだけ大きなもの、という範囲で検討を行った。約1億倍の分子模型では、ひとつの炭素原子の直径が約3cmとなるが、これでは展示にしたときに小さな分子の場合は存在感が出せない。逆に1億倍でも存在感を出せる「高分子」についても検討したが、高分子を手作りすると(特注の一点ものとなるため、業者に製作委託しても手作りとなる)、手間と時間が非常にかかり予算オーバーとなる。
このように、小さな分子が存在感を持ちつつ、予算範囲で製作するとなると、約20億倍に拡大した分子が適当だという結論に至った。約20億倍では、炭素原子1つの直径は約40cmとなる。次に分子の選択であるが、できるだけ身近な物質で、2,3種類の元素を含む単純な分子ということで酢酸(CH3COOH)、水(H2O)、酸素(O2)、食塩(NaCl)の4点を製作した。製作にあたっては業者に製作委託し、その際には、分子模型を含む各種データを渡しそれらを参考に作成してもらった。また、模型の素材については、予算・展示する上での強度などについて業者との相談の結果、発泡スチロールをベースに形を作り、その外側をFRPでコーティングした後に着色するという方法をとった。
写真2.20億倍の酢酸分子:高さは約50p。座ることもできる。
写真3.20億倍の水分子:床に置くと揺れて不安定。
写真4.20億倍の酸素分子:床に置くとコロコロ転がってしまう。
写真5.20億倍のNaCl結晶:大きさは約2m四方となり、それぞれ独立している球(原子)はひとつひとつ手作業でボルトで固定されている。近くに解説員がいたためか、よじ登ったりする見学者はいなかった。
原子の色については、慣習的に使用されている色を基準に、酸素:赤、水素:白、炭素:黒、ナトリウム:ピンク、塩素:青緑、として統一した。
7.展示
これら20億倍の分子模型は、新作展示展「ナノって何なのー身近な原子・分子の世界ー」6)において、関連展示とともに展示した。展示にあたっては、それぞれ、その分子を構成する原子の種類、数、組合せが分かるような解説パネルを設置した。また、単独で展示すると転がったり動いたりするものについては、固定して展示した。
8.結果および考察
分子認識の上で、巨大な分子模型は効果が期待できることがわかった。20億倍にしたことで展示スペースでは存在感があり、原子分子をテーマとしている雰囲気づくりにも一役かっていたように思われた。大人の見学者の場合には、一見して「分子だ!」と思い出したような発言を聞くことが多く、小さな子どもに関しては、触ったり叩いたりという興味を示す様子が見られた。
また、巨大分子模型の効果が期待できることは、この巨大分子模型を展示していた新作展示展「ナノって何ナノ〜身近な原子・分子の世界〜」を見学・利用した小・中学校の先生によるアンケート結果からも判断でき、約60%の先生が「巨大な分子模型は、生徒に説明する際に便利で、視覚的にも学習効果が得られたと思う」と評価した。このような効果は、子どもに対して親や解説印が説明をする際にも見受けられたもので、巨大分子模型の注目度、また分子という想像し難いものをイメージするための手段という意味では、分子の巨大模型は効果のある手法であると判断できた。耐久性もあり、展示化も可能であると考えられる。
ただ、1億倍と20億倍の模型を混同して展示していたために、原子分子の大きさのイメージが混乱する、という指摘もあったことから、拡大率の統一や混乱を防ぐ方法の検討が必要であると考えられる。そして、原子分子の概念の習得は分子模型だけでは難しいため、原子に関する展示、元素に関する展示などの関連する周辺展示の充実が、今後の重要な課題として挙げられる。
参考文献
1)岳川有紀子「展示製作にむけた事前評価」大阪市立科学館研究報告(2002)
2)板倉聖宣著「仮説実験授業」仮説社(1974)
3)伊藤恵著「ちいさな原子論たち」仮説社(1998)
4)詳しくは、以下を参照のこと。
「大阪市立科学館 第3次展示改装 3階展示場 基本計画報告書」(2003)
5)岳川有紀子「化学系展示フロアおよび展示物の調査と考察」大阪市立科学館研究報告(2003)
6)本研究報告に実施報告が掲載されている。
小野昌弘 新作展示展「ナノって何ナノ〜身近な原子・分子の世界〜」実施報告
本展示開発の一部は、平成15年度科学研究費補助金(奨励研究)課題番号15915028の助成を受けて行いました。また、これらの分子模型の製作・展示化にあたっては、小野昌弘学芸員・長谷川能三学芸員と共に検討を行なってきましたが、代表して岳川が報告しました。
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