加藤賢一データセンター
「電気科学館天文室略史」でも触れたように、2006年、火星のクレーターに日本人初めての名前がつくことになった。火星の表面模様や気象現象の観測で国際的にも知られていた故佐伯恒夫氏(1916-1996)を記念したものである。
佐伯さんはまたわが国のプラネタリウム界のパイオニアの一人であり、天文学の普及・教育にも活躍していた天文学者であった。退職後もしばしば元の職場に顔を見せてくれていたので、私たち後輩はいろいろアドバイスを戴く機会があり、それはわれわれの励みとなり、円滑な業務運営に大いに役立った。
このように割と密な関係だっただけに、改めて佐伯さんに原稿を、というような声が出る機会はなかったが、いよいよ電気科学館が閉館ということになったため記録の意味を込めて執筆をお願いしたのが下【1】の記事であった。中には聞いていなかったことも記されており、原稿をお願いして良かったと一同思ったことだった。掲載誌「月刊うちゅう」には編集人黒田武彦さんの手になる写真が載っているが、ここでは省略した。これから機会を見つけて採録したいと思う。
そう思うと、原口氏雄さんや、高城武夫さん、神田壱雄さんなどからもプラネタリウム界黎明期のお話をいろいろ伺ったのに、書いていただく機会がなかったのは、今思うに、かえすがえすも残念なことである。原口さんは電気科学館開館時のスタッフであり、東日天文館の開館にあたって大阪から派遣された方だけに話がダイナミックで、その後、大阪府茨木市の市会議員として中央公民館のプラネタリウムを設置したこともあり、たくさんの情報をお持ちであった。高城さんは開館直後の科学館のスターであり、当時は自ら立ち上げた和歌山天文館を活動拠点とし、天文教育界の重鎮であった。いわゆる「お大尽」の風格があり、幅広い人脈と幅広い知識をお持ちであった。神田さんの原点は北廻船の船宿(だっかと思う)に誕生したことにあって、航海の方から天文に入ったという点でユニークで、旧暦や年中行事にめっぽう詳しく、そうした方面にまるで知識のない筆者には驚異であった。そして、市民生活に密着した科学館という施設には欠くべからざる知識であることを悟った。
Saheki命名の件は朝日新聞2006年1月21日大阪本社版夕刊に掲載された。それを【4】に載せておいた。これに対し、中西美和子さんが朝日新聞に思い出を投書された【5】。中西さんの甥が宇宙飛行士の野口聡一さんであるという。【6】は佐伯が観測した火星面のフレアー現象を巡る話で、アメリカのSky & Telescope 誌に掲載されたものである。
なお、佐伯さんは長らく東亜天文学会を基盤に活動されていた。同会のホームページおよび関連ページのアドレスは以下のとおり。
http://www.amy.hi-ho.ne.jp/oaa-web/index.htm
http://www.mars.dti.ne.jp/~cmo/oaa_mars.html
【1】プラネタリウムの憶い出(1) 佐伯恒夫
【2】プラネタリウムの憶い出(2) 佐伯恒夫
【3】佐伯恒夫メモリー
【4】朝日新聞2006年1月21日大阪本社版夕刊 「観測の鬼」火星の地名に
【5】朝日新聞2006年2月6日大阪本社版 投稿欄 佐伯先生の名 火星の地名に
【6】 Sky and Telescope 110, No.6 (Dec.), p.112, 2005 Renowned Japanese Mars Observers
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プラネタリウムの憶い出(1) 佐伯恒夫 |
1.プラネタリウムと私
たしか昭和5年頃だったと思うが、従兄から貰った科学画報の旧号(たぷん昭和2年の)に、ドイツの光学器械メーカーのカールツァイス社が、プラネタリウムと名付けた過去未来如何なる時代の、何処の土地で眺める星空でも、直ちに映し出せる器械を発明したというニュースを、奇怪な姿のプラネタリウムの写真入りで発表してあったのを見て、当時少年だつた筆者は、ドイツから遠く離れた極東の地の日本では、この器械の映し出す神秘な人造の星空を見ることなど、恐らく不可能だろうと、淋しく諦めていたものであった。
ところが、それから僅か6年後、あの夢の器械が大阪市に据え付けられるとのニュースを聞き雀躍して喜んだものであった。しかも驚いたことに、昭和12年3月13日の一般公開より6日前の3月7日に、東亜天文学会(当時は天文同好会と称していた)の会員を特別招待して観覧させてくれるとのことで、文字通りの夢の様な話に、当時九州に居た筆者は列車を乗り継いで上阪し、胸を踊らせ乍ら四ツ橋に聳え立つガラスの城とでも言える風変わりな建物の電気科学館を訪れたものである。エレペーターで6階に昇り、天象館と書かれた入口を潜り、プラネタリウム窒に入ると、直径18mの円形の室の真中に、夢にまで見たあのダロテスクな姿のプラネタリウムが、ドッカと坐り、球形の天井はドーム照明に照らされて真白く輝き、周りの壁面の上部には館の上から眺めた大阪市の風景がシルエットとして描き出されていて、何とも言えぬ神秘な光景を現している。やがて山本一清博士の解説で夕日が、夕暮れのメロデイーに送られて西の春日出火力発電所の煙突の後ろに沈んで行くと、空は次第に暗くなり、一番星二番星が輝き、ついで西の地平の薄明りが次第に弱まり、遂に消え去ってしまうと大空は真暗くなり、全天に無数の星々が姿を現して燦め(くように思えた)き出すと思わず溜息をつき、ついで無意識に拍手したものである。山本博士の巧みな話術による星空の解説が終りに近づくと、星の涙かと思われる流星がホロリホロリと飛び、ついで東の地平に微かな薄明りが見え始め、それが次第に明るさを増してきて遂に夜けを迎える。プラネタリウムの、いや実際の星空の、尤も神秘で強く心を打つのは、夜明けの神々しい光景だと云うことを、この時、初めて強く感じたものである。
この特別見学会は、東亜天文学会の昭和12年度総会を兼ねて行われたものであつて、来会者は140名にも及んだ。この後の総会はそごうデパート8階大食堂で行なわれ、記念講演は木辺成麿氏による「SS Cyg
の発見について」であり、その後の雑談でプラネタリウムの椅子に枕をつけて欲しい、いや、そんなものをつけたら眠ってしまうからダメだとか、月の顔に模様がないのは淋しい、恒星像が大き過ぎる等々と色んな意見が出ていた。
2.電気科学館に就職
昭和16(1941)年9月、当時某社に居た筆者は上海の本社への転勤が決まり、大阪市も見納めだと思って心斎橋をブラついているうちに、フト花山天文台時代の先輩の高城武夫氏が四ツ橋に居る事を思い出し、何気なく電気科学館を訪れた。すると高城氏は、顔を見るなり「一体何処に隠れていたのだ、随分君を探して居たよ」と云い、強引に館長室に連れて行き、小畠館長と高城氏の二人で、今の会社を直ぐ辞めて、館に来て仕事を手伝って欲しいとの膝詰め談判で、しかも、この年の10月に準大接近をする火星を目前にして、観測の為の望遠鏡が無く焦っていた筆者の弱みを衝いて、館の25p反射望遠鏡を自由に使って良いから、是非入館する様にとの話である。事情を聞いてみると、天文室の井尻、桜井、清水と云う3人の若い技術員が、3人揃って軍籍が有り、年末には入隊してしまうとの事で、その補助として神戸市の岡林滋樹氏(岡林新星の発見者)の採用を決定したところ、同氏は、これを蹴つて京大の地震研究所に入ってしまい、このままでは、室長の瀬川技師と高城氏の2人だけになってしまうとのことである。これは気の毒だと考えた筆者はライフワークの火星の観測も行なえる事だからと、直ちに会社に辞表を出し、大阪市に就職手続きを行ない、数日後の9月26日から勤務することとした。
3.プラネタリウムの話題
館員となって仕事を始めて、直ぐ気になったのが毎月のプラネタリウムのテーマである。曰く「恒星」「流星と彗星」「暦と星」等々で、まるで教科書の目次を見ているようで味気無いこと夥しい。何とか夢のあるロマンチツクなテーマにしたらと高城氏に相談したところ、もともと、杓子定規の嫌いな同氏はそうだそうだと、天文室全員で話題作りの相談会を毎年秋に開くこととし、毎回2時間位づつ4〜5回開いて議論を闘わせたものである。その結果の傑作と思えるもの2〜3を列記すると 「歴史の夜空」(昭17年2月) 南十字星が日本の空を飾っていた神武時代から、姿を消して、ドナチ彗星が現われて近代に到るまでの星空 「無限の生命」(昭17年5月) 恒星の寿命と銀河の生命について 「大阪と天文(なにわとほし)」(昭17年10月) 麻田剛立一門と大阪の天文学について 第2次大戦後「零下273度」と云うテーマで星間物質の話をしたところ、低温物理の世界的権威の奥田毅博士(大阪市大)が飛んで釆られたのには閉口したものである。
4.四ツ橋学校
開館直後から士曜科学講座を毎週開き、電気と天文の講義を交代で行なっていた。ところが昭和16年の年末ごろ、プラネタリウムの常連の子供達が、当時旧制女学校の3年生であった亀井良子さん(現在の片岡良子さん)を先頭にして、科学講座は難し過ぎて面白くないので、子供向きの天文講座を開いて欲しいと申し入れて来た。それで早速第1と第3日曜日の朝11時から5階の講堂で、山本一清先生の「天体と宇宙」(借成社)をテキストにして、高城、筆者、青木章(昭16年12月入館)の3人で交互に担当して開講した。ところが、何時の間にやら生徒数は50人を越え、しかも毎週やって来ては座り込むようになり、結局、ほとんど毎週開講という形になってしまい、野外活動として花山天文台見学、田上村の山本天文台(草津市駅から6kmも歩いて)訪問を行い、筆者が宿直の夜は希望者を集めて屋上での天体観測を行なったりした。何れにしても、中2から小4ぐらいまでの約50人のヤンチャ坊主の知識欲に燃えたギラギラ光った眼が今でも眼前に浮かんでくる程である。
この天文講座は昭和19年7月に筆者が召集になってから閉鎖されたが、この生徒たちが何時の間にやらこの講座を四ツ橋学校と呼ぶようになり、この中から出た天文学者が現京大助教授の中井善寛博士(花山天文台)であり、前ペルー大学の教授高橋敷氏(堺市)である。
5.第2次大戦とプラネタリウム
第2次大戦は戦線が遠く赤道を越えて南溟の果てにまで及んだ。となれば、天文の知識無しでは行動出来ないのは当然である。戦況報告に片カナの地名が頻出するようになると海軍は勿論のこと、陸軍の各部隊が団体としてプラネタリウムの星空見学に来るようになった。江田島の海軍兵学校は開館当初から、開戦後は陸海の航空隊、潜水学校、陸軍船舶部隊等々が続々と来館し始め、遂に昭和18年末頃、プラネタリウムを海軍兵学校が接収しようとしているとの噂が出て来たが、これは結局陸軍の横槍が入って沙汰止みとなりホッとしたものである。
6.終戦と四ツ橋
昭和20年8月15日終戦。当時、首都防衛部隊の決師団に所属していた筆者は、干葉県佐倉市近郊に布陣していたが、8月末、召集解除となり、まず家族の疎開していた富山に帰り、ついで単身大阪に出た。大空襲で焼かれた大阪は無残にも瓦礫の街だった。大阪駅頭一体は焼土であり、遥か彼方に軍艦の前橿形の朝日ビルがポツンと立つている。科学館は無事かしらと気にしつつ、歩いて肥後橋まで来ると、焼野ケ原の彼方に、懐かしい科学館の特徴のある建物が無疵で立つているのが見える。ヤレセレ助かつたと胸を撫で下ろして歩き続け、約20分後に科学館に辿り着き、懐かしい館員の顔を眺め、挨拶もソコソコにして6階に駆け昇り、ドアを開けてドームに入るとプラネタリウムは無事、補修係の岡本翁も元気でニコニコして迎えてくれた。
敗戦の混乱と交通事情の悪化でプラネタ1リウムは昭和20年6月から閉館のままであり、それでも進駐のアメリカ兵や将校がジーブで乗りつけてはプラネタリウムの星を見にやつて来ていたが、彼等は恐らく遠い故郷の星を眺めて感慨に耽つていたのであろう。
ところで定時の仕事が無いのは気楽で閑なものである。そこで、一度、1年7秒間という超高速モーター(日月五星の位置調整用に備えられている)を利用して、西暦紀元元年頃に戻して、ペツレヘムの星を調べてみようと高城氏と二人で相談して、閉館後の夜、20分間運転(171・4年後退)しては20分間休憩、更に20分運転と休憩を11回余り繰り返し、7時間余りを費やして午前0時過ぎにゃっと紀元0年にまで戻し、その前後を調べてみると、紀元前6年(西暦マイナス5年)2月末には春分点の直ぐ南西で木星、火星、土星が三角形を描いて並んで居り、更に1年前の6月末、9月初め、12月末には木星と土星が仲良く列んでいた事が判った。ケプラーや長谷川一郎博士の計算が正しかったことを実見した訳である。ついで翌日、ほとんど1日かかって、1946年まで戻したことは云う迄もない。
さて、この頃、陸軍航空隊から復員した戦闘機乗りのバイロット十数名が訪れて来て、「民間機のパイロットとなる為の試験に天測航法が有って困っているので助けて欲しい」とのことであった。そこで高城、神田壱雄氏(昭和19年末入館)と筆者の3人で交互にプラネタリウムによる実習、講堂での講義を約2週間ぶっ続けに行なった。流石に選抜されてパイロットになった若者達だけあって、理解も早く記憶力にも優れ、講座を担当した筆者達もやり甲斐の有る楽しい仕事であった。
約半年後、受講生全員が、テストに合格しましたと挨拶に来た時には我が事のように嬉しかった。彼等は間もなくパイロットとして、ついで機長となり戦後の日本の空を飛び、遂には国際線にも進出して華々しく活躍していたが、数年前停年退職し、現在は第二の人生を歩んでいる筈である。
(さへき・つねお)
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プラネタリウムの憶い出(2) 佐伯恒夫
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7.戦後のプラネタリウム
終戦後のプラネタリウムは一応閉館してはいたが、希望者が来れば無料で観せていた。しかし、恐らく海外では東京のプラネタリウム同様に、大阪のものも戦火で焼失したと思つていることだろうと考えた筆者は、大阪のプラネタリウムは健在であることを示す必要が有ると考えた。そこで、海外の観測家や学会へ送る手紙や報告などは総て「電気科学館」の名でなく
"OSAKA
PLANETARlUM" の名で出すことにし、勿論報道関係へ発表するニュースにもこれを用いることとした。この反応は予想以上に早く、進駐軍関係者(学徒が主であるが)の来館が増え、1年後には海外からの問合せや、種々の印刷物が数多く送られてくるようになった。
さて海外はこれで良いとして、問題は国内である。貴重な文化財であるプラネタリウムが無事であることを、国内、いや大阪周辺の地域でも知らない人が多い筈である。そこで館員全部が相談し合った結果、戦災により娯楽施設が全滅し、一般市民が娯楽に飢えていることに着目し、外国映画の配給を受けて、6階プラネタリウムホールで、映画の上映と約20分間のプラネタリウム投影を交互に4〜5回行うという「星と映画の会」を昭和21年2月21日より開始したが、これは非常な好評を博して、来館者が急増し、屡々超満員という状況であった。しかし、1年後、映画館の再開が増え、一方、交通事情が好転して、各地からの修学旅行の団体の来館が増加して来た為、昭和22年5月末で「星と映画の会」を打切り、従来のプラネタリウムの姿に復すこととした。
8.天文講演会の復活
戦後の混乱が漸く収まりかけた昭和23年から、毎月1回(第3日曜日の午後1時)づつの天文講演会が復活し、山本一清博士が草津市から自費で来講して下さり、その名講義に憧れて数多くの人々が参集し、常連となり、何時の間にやら住年の四ツ橋学校が息を吹き返してしまった。
ところで、この講演会で筆者は毎目天文ニュース紹介を担当していた。たしか昭和28年5目だと思うが、アメリカの天文誌 Sky &
Telescope の4月号に、トムソン(W.J.Thomson)が流星塵の採集について発表していたものを紹介し、ついでに「天体観測は家庭の主婦には困難だが、プレパラートグラスを戸外に1日晒し、これを取入れて顕微鏡で検索するという流星塵観測は、主婦向けの最も適当な仕事である。」と話をしたところ、片岡良子さん・石崎正子さん・森静子さんの3人の主婦が早速、この観測に参加したいと申し出てきて、具体的な観測法や、観測結果の整理についての研究や打合せ等々の準備を済ませた末、昭和30年から宝塚(片岡)・大阪市内(石崎)・大阪府下太子((森)の3ヶ所での流星塵の採取と比較研究を開始し、更に南極越冬隊に依頼しての採集標本の調査(石崎)なども行なって、ユニークな研究は学界の注目を浴びた。
又一方、同じ頃から、毎月の講演会に最前列に座つて熱心に講義を聞いている父と子が人目を惹いていた。可愛い丸坊主の小学校2年生の宮島一彦君とその父親の二人である。この親子は、一彦君が高校に入り、京大の宇宙物理に入るまで毎月出席していたが、成人して現在は同志社大学工学部助教授(古代中国天文学史)となり、研究を続けていられる。
9.いろいろな事ども
昭和20年代後半の事だつたと覚えているが、中国の李徳全女史が戦後の日本視察に来日し、科学館に来訪された。確か文化・教育担当で、日本の文化施設の調査(と云うよりもプラネタリウムの視察か)であったと思われる。それは良いとして、問題は女史の身辺警護と称する民間グループの跳上がりとも云える狂気じみた行動であつた。来館前日の夕刻から、このグループが続々と押し寄せてきて、館を取囲み、焚火をたいて徹夜で気勢を揚げ、翌朝は館の入口を閉じ、出勤する職員を一人々々訊問して、容易に通そうとしない。筆者も入館を阻止されたので「李女史の視察目的のプラネタリウムの担当者だが、通さないなら、このまゝ帰る!」と云った処、やっと通して呉れた。ついでプラネタリウムホールでは、李女史の席を取巻いて人垣を作り、さらに星空を映す為に照明を落し始めると「暗くしてはダメだ」と怒鳴り、手にしたライトを振りかざして操作台につめ寄って来る。馬鹿々々しくなって、そのまゝ無視して照明を落し、星空の説明を続けたところ、この連中、恐らく生れて初めて見るプラネタリウムの星空の凄さに気をのまれたものか、シーンと静まり返ってしまった。
さて星空の説明が終ってホールを明るくすると、李女史がニコニコして操作台に近寄り「謝々」と手をさし出し握手を求めてきた。この時の女史の掌の暖かさと柔かさが、それ迄の跳上がりグルーブの無礼さに対する筆者の怒りをスーツと霧散させてくれてしまった。
昭和28年の初め、幼稚園長と保育所々長のグループとの懇談会で、園児にプラネタリウムの星を見せて欲しいと要望され、では七夕とお月見を対象として考えてみましょうと答えて準備に取掛かり、まずテストケースとして、この年の7目7日を中心として1〜2週間の予定で「七夕祭り」の会を開くこととして発表したところ、驚いたことに見学申込が殺到し、アッと云う間に3週間(後には1ヶ月となった)満席となってしまった。
さて、これ迄は良いとして、問題は幼児対象の投影である。暗くなれば泣き、大熊座などの絵を出せぱ恐ろしがる。やさしい言葉と幼児語は全然別である等々、あゝでもない、こうでもないと試行錯誤の連続で、大人の当方が泣きたくなるくらいの毎日であった。しかし間もなく、幼児を持っている高城氏と筆者は、曲りなりにも園児のお相手が出来るようになったが、独身の神田・戸田両氏は長い間困って居た様子で、屡々筆者等がピンチヒッターを買って出たものである。それでも回を重ねるに従って馴れ、数年間で全員型園児相手のベテランとなり、昭和42年9月からは「お月見」の会(2週間)も開催するようになつて、七夕と月見は四ツ橋の年中行事として定着してしまった。
戦災による交通機関の麻痺によって、修学旅行は全面禁止であったが、昭和22年頃から近距離の旅行が解除となり、特にプラネタリウム見学と云う目的の場合は遠距離旅行が許可された。この為、昭和23年頃から、北海道の高校、鹿児島の中学校の団体が顔を見せるようになり、プラネタリウムの入場者は、昭和22年が15万人、26年は30万人、30年は44万人(これがピーク)と急増し、定員220名余のホールに、600人、900人、最高は1100人と詰め込んで、まるでラッシュ時の電車なみの混雑であり、しかもホールの冷房は軍命令で昭和18年に撤去供出されており、戦後復活したのが昭和26年5月末であったから、昭和24、25、26年の団体シーズンには、物凄い熱さで、死ぬ思いをさせられたものである。
この当時の記録が未だに尾を引いて、昨今の年問入場者20万人弱は、天文担当者の怠慢であると指摘されている次第である。
漫画家の手塚治虫、作家の織田作之助・眉村卓、花月の九里丸・エンタツ・アチャコ等々もプラネタリウムのファンであり常連であったが、その織田作の小説「わが町」にはプラネタリウムを舞台とした部分がある。昭和31年7月9日、日活がこれを映画化する為に、プラネタリウムホールでロケが行なわれ、ベンゲットのターやんこと佐渡島他吉に扮した辰巳柳太郎が、プラネタリウムの星空でフィリッピンの南十字を仰ぎつつ息を引き取り、そこへ孫娘の君枝( (南田洋子)と婚約者の花井次郎(三橋達也)が駆けつける、というシーンであるが、この時のプラネタリウムの解説役を誰がやるかでモメたが、皆が尻込みして逃げてしまったので、仕方なしに筆者が引受けたが、煌々たるライトに照らされての星空の説明は、勝手が違つて閉□したものであった。
10.特殊投影機のこと
日時は忘れたが、昭和20年代の終りの頃信岡正典と云う人が、京大教授の高木公三郎博士(開館当時、山本博士に命じられて天文学指導に一年間滞在した)の紹介状を持ってフラリとやって来た。聞いてみると南方の戦線で見た星空の美しさが忘れられず、あの素晴らしい星空を投影する機械を作りたいと考え高木博士に相談したところ四ツ橋に行きなさいと紹介されたと云う。そこで機械に詳しい神田・戸田両氏を紹介し、プラネタリウム整備員の岡本績氏を紹介して、自由に機械を見学できるよう手配した。それから「いきなりプラネタリウムは無理だから、まず日月食の投影機、ついで太陽系投影機を作ってプラネタリウムのメカを体得しては」と話したところ、早稲田大学工学部出身で重砲聯隊の中隊長であって、オートバイ修理業をやっていた同氏は、僅か半年で日月食の投影機(皆既・金環・部分日食、皆既・部分・半影月食が映せる美事なもの)を完成し、昭和30年頃持って来た。太陽系投影機は地球を含めて六惑星の公転周期の比率を正確に表現せねぱならないので(これがプラネタリウムの基本である)非常に難しい。しかし、これも約1年で作り上げ、しかも、惑星の他にハレー彗星を、と要望したところ、近日点に戻れぱ尾を吐き出し、太陽から遠去かれば尾が消えるという立派なものを完成してくれた。つづいて、近く打上げられる筈の人工衛星の投影機(公転毎に地上から見るコースが変化する)も、天文部全員と信岡氏との共同作業で昭和32年4月に完成し、実際の人工衛星スプートニク1号が打上げられた10月4日から半年も前に、大阪のプラネタリウムの空に、人工衛星を飛ばしたものである。信岡氏は以上の投影機を総て寄贈して下さり、この功に対し7月紺綬褒章が下賜された。
これ以後信岡氏は、オーロラ・恒星固有運動・朝焼夕焼の投影機など卓抜なアイデァで完成し、プラネタリウムの演出に絶大な効果をもたらしてくれた。これらの研究を集積し、信岡氏はミノルタカメラと協力して、遂にプラネタリウムを完成した。これが現在のミノルタのプラネタリウムである。
(さへき・つねお)
*プラネタリウム界の草分けと言える佐伯恒夫さんに、前号に続き電気科学館での憶い出を綴って戴きました。お話の方は紙面の都合もあり、プラネタリウムの国産化(1960年代)迄に留まりましたが、佐伯さんは1971年に退職されるまで30年間にわたつてプラネタリウムに携わられ、その名調子に感動された方も多いと思います。
その間、1957年に東京の渋谷に、60年には兵庫県の明石に、62年には愛知県の名古屋にプラネタリウムがオーブンし、今や全国で300ヵ所にもなろうとしています。また、技術の進歩も著しく、投影のオート化などその変貌ぶりには只、驚くのみです。
(菊)
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*)最後の(菊)は菊岡秀多(ひでかず)。「電気科学館天文室略史」を参照してください。
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1958年、オーバーホール。五島プラネタリウムの開館のため来日していたドイツ・ツァイス社の技術者を招いた。写真、一番左は神田壱雄(かずお)、ドイツ人技師の右横が佐藤明達(あきさと)、右端が佐伯恒夫。
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プラネタリウム解説用草稿
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佐伯の入館は昭和16年9月。翌月10月からのプラネタリウム解説用に作成したのであろう。ツァイス機の操作法は単純だったから操作自体は1週間あればマスターできた。 |
昭和17年1月用。現在の解説者の中には全く草稿を書かない人もあるが、少なくとも筆者までは入館1年ほどは作成していた。 |
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昭和17年4月5日日曜日の「こども朝の会」用草稿。同様の会はその後も行なわれていた。現在は「ジュニア科学クラブ」として毎月、例会を行なっている。 |
作成年不明。本文に「戦前、・・・、現在では、東洋唯一の・・・」とあるので、1957年頃までであろう。プラネタリウムの機能全般を紹介する内容であり、特別の投影だったのだろうか。 |
「観測の鬼」火星の地名に
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日本人で初 故・佐伯恒夫さん
スケッチ50年 プラネタリウム名解説
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大阪市のプラネタリウムの名解説者として知られたアマチュア天文家の故・佐伯恒夫さん(1916〜96)の名が、火星の地名になる。大型クレーターの一つが「Saheki」と命名され、今年8月にある国際天文学連合(IAU)の総会で正式に決まる。日本人の名前が火星の地名につけられるのは初めてという。
火星のクレーターには人名や小都市名などがつけられる。地動説のコペルニクス、進化論のダーウィン、新大陸「発見」のコロンブスなどの人物が名を連ねている。
佐伯さんの教えをうけた広島県廿日市市の元プラネタリム解説員、佐藤健さん(67)が01年にIAUに提案し、このほど内定の連絡が届いた。このクレーターは火星の南半球にあり、直径85キロ。
佐伯さんは独学で天文学を学び、大阪市内の自宅などで50年間にわたって火星を観測して詳細なスケッチに記録した。謎の閃光現象や灰色の雲などの観測で世界的に知られる。
一方で、41年から71年まで大阪市立電気科学館(現・大阪市立科学館)でプラネタリウムの解説を担当。著書やテレビ・ラジオなどを通じて天文学の普及に力を尽くした。アマチュア天文家が中心の東亜天文学会や、日本暦学会の会長も務めた。
佐藤さんは「『火星観測の鬼』と呼ばれ、火星に一生をささげた佐伯先生の名前が火星に刻まれることになって大変うれしい」と言う。
佐伯さんの長男で兵庫県伊丹市で環境関連会社を営む雅夫さん(59)は「長年にわたる功績が認められて、父も喜んでいると思います」と話している。
(杉本潔記者)
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以上の通りで、Saheki命名は佐藤健氏の尽力によるものです。また、広く紹介していただいた杉本さんには厚く御礼申し上げます。
佐伯先生の名 火星の地名に
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無職 中西 美和子 (大阪市東住吉区74歳)
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大阪市立電気科学館(現・市立科学館)でプラネタリウムの解説をしていたアマチュア天文家の故・佐伯恒夫さんの名前が、火星の大型クレーターの一つにつけられるという記事を読みました。私も少女の頃、父に連れられて弟とプラネタリウムを見に行くのが楽しみでした。
戦時色の濃い世の中でしたが、電気科学館だけは美しい夜空を見て夢をふくらませられる唯一の場所でした。佐伯先生の解説は私たちにもよく分かるように親切な話しぶりで、火星に力を入れて観測しておられるのが伝わってきました。
少し赤い星のスケッチも見せて頂きました。天体望遠鏡をのぞく機会はありませんでしたが、小さなファンのひとりでした。作業服で、腰に手ぬぐいをぶらさげたお姿を尊敬して見ていました。
プラネタリウムがきっかけにとなり、弟は空への興味を持ち続けていたようです。やがて、弟の子どもが大きくなって花を咲かせることになりました。宇宙飛行士の野口聡一です。
いつか人類は火星へ到達する日が来るでしょう。先生の名前を刻んだ場所が永遠に伝えられるのを、心からお祝い申し上げます。
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【6】 Sky and Telescope 110, No.6 (Dec.), p.112, 2005 Renowned Japanese Mars Observers

(2006.2.8.)