22/Jun./2000 更新

近世日本の天文学者・人名辞典





 江戸時代の日本で活躍した天文学者を紹介します。


  ***** 目   次 *****



1.麻田剛立 ( Asada, Gouryu )
2.高橋至時 ( Takahashi, Yoshitoki)
3.間重富 ( Hazama, Shigetomi)
4.間重新 ( Hazama, Shigeyoshi)
5.渋川景佑 ( Shibukawa, Kagesuke)
6.渋川春海( Shibukawa, Harumi)
7.伊能忠敬 (Inoh, Tadataka)


1.麻田剛立 (Asada,Gouryu : 1734-1799)
 日本において、近代的な天文学研究をはじめて行った天文学者が麻田剛立である。享保19(1734)年2月6日、豊後国杵築藩(いまの大分県杵築市)の儒者綾部安正の第四子として生まれた。幼名庄吉良、名は妥彰、璋菴と号した。
幼い頃から独学で天文学と医学を学び、明和4(1767)年には杵築藩侯の侍医となった。しかし、安永元(1772)年頃に杵築を離れ大阪に至り、その後は麻田剛立と名のって大阪本町四丁目で医を業としながら研究を続けた。
剛立の学風は漢訳西洋天文書の『崇禎暦書』をベースとし、理論を実測で確認するという近代的なもので、やがて多くの弟子が集まり「麻田学派」と呼ばれる一派が形成された。寛政年間、幕府は改暦のために剛立を招こうと考えたが、老齢かつ脱藩の身ゆえ受ける意志がなかったため、その結果高弟の間重富と高橋至時が招かれる事となった。
 剛立は寛政改暦の前後から老衰が加わり、寛政11(1799)年5月22日に没した。享年66才。
1999〜2000年にかけて、大分県教育委員会より、麻田剛立の資料集、評伝が出版された。

主な著書:『時中法』、『実験録推歩法』、『弧矢弦論解』

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2.高橋至時 (Takahashi,Yoshitoki : 1764-1804)
 高橋至時は明和元(1764)年11月、大阪定番同心高橋徳次郎の子として生まれた。通称作左衛門、字は子春、東岡または梅軒と号した。
 幼い頃から算学を学び、やがて麻田剛立に入門し天文学を学んだ。彼は特に天文学理論の研究に才能を発揮し、寛政年間には師の剛立の実力をも凌駕していたといわれる。
寛政7年、間重富と共に暦学御用につき江戸出府を命ぜられ、同年11月には幕府天文方に昇進した。翌年には寛政の改暦事業を命じられ、寛政暦作成の中心人物として活躍した。改暦後は江戸で天文学の研究に打ち込んだほか、伊能忠敬の全国測量の指導も行っている。
 享和3年には、フランスの天文学者ラランドの著書『天文学』のオランダ語訳本(いわゆる『ラランデ暦書』)を入手・翻訳を行ない、西洋天文学の直接導入の道を切り開いたが、翌文化元(1804)年1月4日、41才で病没した。長男景保が後を継ぎ、また次男景佑は後に天文方渋川家の養子となって天文方に就任している。高橋は非常に優れた理論天文学者であり、天文方として活動した10年ほどの間に、幕末までの日本の天文学の流れを確立したといっても過言ではない。江戸時代を代表する天文学者である。

主な著書:『西洋人ラランデ暦書管見』、『新修五星法』、『増修消長法』、『赤道日食法』


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3.間重富 (Hazama,Shigetomi : 1756-1816)
 間重富は、宝暦6(1756)年3月8日、間家6代目重光の第6子として大阪に生まれた。兄たちが相ついで夭折したため、第7代目を継いだ。初め姓は羽間であったが、寛政の改暦の功績により苗字を許され間と改めた。幼名孫六郎、字は大業、長涯と号した。家業は十一屋という質屋で、通称は十一屋五郎兵衛といった。
 幼い頃から算学や天文学に興味を持ち、麻田剛立に天文学を学んだ。入門は天明7(1797)年の頃とされている。重富は麻田門下の高弟であっただけでなく、特に観測技術面で才能を発揮し、垂揺球儀をはじめ多くの観測機器を考案・改良し、また私財を投じて工人を養成して機器の製作にあたらせた。
 寛政7(1795)年、同門の高橋至時と共に暦学御用のため幕府に召され、江戸へ出た。翌年、寛政の改暦事業を命ぜられ、江戸で実測等に当たった。改暦後は大阪で御用観測を行っていたが、文化元(1804)年に盟友の天文方高橋至時が病死したため、後を継いだ長男景保の後見役として江戸に出府、文化6(1809)年まで天文方高橋家の指導を行った。
 帰阪後は、御用観測のほか古尺取調事業などに従事していたが、文化13(1816)年3月24日没した。享年61才。

 主な著書:『算法弧矢索隠』、『垂球精義』、『星学諸表』

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4.間重新 (Hazama,Shigeyoshi : 1786-1838)
 間重新は、天明6(1786)年間重富の長男として生まれた。幼名清市郎(または清一郎)、字は伯固、確斎または盛徳と号した。
15才の頃には松岡能一に算学を学んでいる。また早くから天文暦学の教育を受けたと思われ、重富が御用観測を始めた寛政10年頃より観測の手伝いをしている。重富没後は間家第八代を継いで十一屋五郎兵衛を名乗り、幕府の御用観測も同様に勤める様命じられている。
 重新は、特に天体観測の技術に長けており、観測法や観測機器の考案・改良を行って観測精度の向上につとめている。また著作は大部分が天体観測に関するものであり、天文学理論の著作はほとんどない。従って、重新は観測天文学の専門家といった印象が強い。
 天保9(1838)年1月2日、53才で没し、長男剛之助重遠が後を継いでいる。

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5.渋川景佑(Shibukawa,Kagesuke :1787〜1856?)
 江戸時代後期の天文学者。幕府天文方高橋至時の次男として大阪で生まれた。幼名は善助。1805(文化2)年には、伊能忠敬の全国測量に同行して東海・山陽・山陰地方を実測している。
1808(文化5)年に天文方渋川正陽の養嗣子となり、翌年天文方に就任、名を助左衛門とした。
 その後、高橋景保や足立信頭らと共にラランデ天文書の訳解に従事し、1936(天保7)年『新巧暦書』として大成した。また『寛政暦書』『新修五星法』等の編集・著述も行なうなど、当時の天文方の懸案課題を完成させた。
 1841(天保12)年、幕府は天文方・渋川景佑と足立信頭に対して、『新巧暦書』に基いて改暦を行なう様に命を下し、天保暦法(1845年施行、正式な暦法名は「天保壬寅元暦」)を作成した。その他、景佑には『寛政暦書続録』『三統暦管見』等多数の著作があり、江戸時代後期の天文学をまとめあげた役割をはたした。

主な著書:『新巧暦書』(共編)、『寛政暦書』(共編)、『寛政暦書続録』、『三統暦管見』

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6.渋川春海( Shibukawa, Harumi :1639〜1715)
 江戸時代の天文学者。幕府碁方安井算哲の子として京都で生まれた。14才で父の役職を継ぎ、安井算哲を名乗った。のち姓を保井と改め、1702年には本姓の渋川に改名している。幼い頃から天文を好み、また山崎闇斎に朱子学・神道を学んだ。
 当時行われていた宣明暦は天の運行とのズレが生じていたため、春海は自ら新しい暦法「大和暦」を作成して幕府に改暦を上奏した。その結果、正式な暦法として採用され、名を「貞享暦」と改め1685年から施行された。「貞享暦」は中国の授時暦法を基本とし、日本と中国との経度差等を考慮したもので、我が国初の国産の暦法である。1684年、改暦の功により幕府の初代天文方に就任した。

主な著書:『日本長暦』、『天文瓊統』、
『天文分野之図』

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7.伊能忠敬 (Inoh, Tadataka :1745〜1818)
 江戸時代の測量家。日本ではじめて精密な全国地図を作ったことで知られている。
貞享2(1745)年、上総国山辺郡の小関家生まれる。17歳のときに、下総国佐原村の伊能家に入夫した。
 隠居後の寛政7(1795)年、50歳で江戸に出て幕府天文方高橋至時に入門。天文学を学ぶ。その後、寛政12(1800)年の第一次測量を皮切りに、延べ17年間にわたり10回の測量を行い、詳細な全国地図『大日本輿地全図』(1821年)を作成した。彼の地図の精密さを特徴づけるものの一つには、天体観測による各地の緯度決定がある。つまり地理的な測量に加えて天体観測によるデータを加味したことにより、精密な緯度の値を算出することに成功している。
 伊能忠敬は、高橋至時のもとで天文学を学んでいる。彼は当時最新の教科書であった『暦象考成後編』などに基づいて、日月食などの予報計算ができたようであるが、いわゆる「天文学研究者」という程のレベルまでには達していなかった。従って、天文学における学問的水準としては、あくまでも至時の門下生の位置付けるべきであろう。


天文学に関連する主な著作:『国郡昼夜時刻』、『仏国暦象編斥妄』


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