28/Dec./2000

電気科学館とプラネタリウム

日本のプラネタリウム館数はアメリカ合衆国に次いで多く、現在、世界第二位となっています。その草分けとなった日本最初のプラネタリウムはここ大阪市立科学館の前身である、市立電気科学館に設置されていました。

大阪市立電気科学館の開館

市立電気科学館は、1937年(昭和12)3月に、大阪市西区・四つ橋河畔に開館しました。電気科学館にドイツ、カール・ツァイス社のプラネタリウムが導入されるきっかけとなったのは、1934年に欧米の電気事情を視察した当時の電灯部長が、帰国後、第一に提唱したのが、プラネタリウム(電気応用天体運行照写装置)の建設計画だったのです。

非常に高かったプラネタリウムの値段

当時、プラネタリウムの価格は、46万8000円、それに輸送費や技師派遣費として3万円を要しました。この金額は当時、小学校3校が建設できる価格であったといわれています。

秘密に進められたプラネタリウムの設置

発注から1年余りを経た1936年12月23日、日本郵船照國丸は東洋で最初のプラネタリウムを積んで大阪港に入港しました。翌年1月6日には通関手続きも完了、組み立てはカール・ツァイス社のランゲ、ヘルスゲン2人のドイツ人技師と、後にプラネタリウムの保守専任となる岡本兵作技工員があたり、40日を要して2月20日に完成しました。なお、作業中は部屋が閉め切られ、たとえ館長といえども入室は許されなかったと伝えられています。

1937年、公開開始

開館は、1937年(昭和12)3月13日で、当時の投影は (1)午前9時半、(2)午前11時、(3)午後1時、(4)午後2時、(5)午後4時の5回で、1回の投影時間が約45分、投影内容を、夕方の情景解説の後、テーマ解説を行い、日の出を迎えて終了するという投影パターンもこのときに確立されたようです。また、日没時や日の出時には演出効果を高めるため、毎月の話題に応じて、ルビンシュタインのピアノ曲カメンノイオストロフやワグナーの歌劇ローエングリン第一幕前奏曲など、クラシック音楽を中心として選曲されていました。また、内容も戦時中の南方の星空の教育投影、学校向けの学習投影、幼児投影、音楽会、映画会、ジュニア天文講習会、講演会など様々なパターンで行われました。ファンも多く、作家で「夫婦善哉」で有名な織田作之助や、マンガ・アニメ文化を確立した手塚治虫などもプラネタリウムに通っています。また多くの天文ファンを育て、後に天文学者になった人も大勢います。

1989年閉館、そして大阪市立科学館へ

市立電気科学館は、1989年(平成元)5月末日をもって閉館しましたが、その間に1957年に東京の五島プラネタリウムの建設があり西ドイツから技師が派遣される機をとらえて、オーバーホールを行い、また、解説卓も体格の違うドイツ人向きの物から、日本人に合う寸法に改め、同時に、使用電気部品も大半が国産品に変更されました。
市立電気科学館で52年間のながきにわたり活躍をしたドイツ、カール・ツァイス社のII型プラネタリウムは、現在、大阪市立科学館のプラネタリウム入り口に展示されています。

2000年12月大阪市指定有形文化財に

このツァイスU型プラネタリウムが平成12年12月12日に大阪市の文化財に指定されました。 ツァイスU型は現在では世界中で3基しか残っておらず、そのうちの貴重な1基です。  


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