化学の右と左

 政治などの世界では、右とか左とか言うと、なんかちょっと引いてしまうことがあるのですが、化学の世界の右と左はご存知ですか?これがまた、結構奥深いんです。そしてこれが、有機化学を大きく発展させ、現在、教育再生会議(2006当時)の座長をしている野依先生の2001年にノーベル賞受賞にも関係します。

「幸運は、その用意のある心にのみ訪れる」L.パスツール

パスツール
今回の話題は、ワインに含まれる成分に関係します。
1848年、エコールノルマルシュペリエールという、フランスで言うところの高等師範学校を卒業したL.パスツールは、そこで助手の働き口を得ました。卒業時の論文で結晶学についての研究を発表したパスツールは、その続きで、酒石酸(C:HOOC−CHOH−CHOH−COOH)の光学活性について調べていたのです。そして酒石酸はワインの中に含まれる成分で、長年熟成されたものには、結晶化し、澱となってボトルの底や、コルクの口に析出していることがあります。時には、ワインのダイヤモンドなどと呼ばれることもありますが、概ね、口当たりを悪くするものと考えられているものです。パスツールは、この酒石酸塩類の研究を行っていました。

キラルな分子
それまでパスツールが調べていた酒石酸塩では、光の偏光面を右側に変えていたのですが、ワインから取れる、この酒石酸塩は、酒石酸塩と同じ化学組成を持ちながら、偏光性がまったくないのです。
そして、この酒石酸を結晶化させると、同じような形をしているけれど、どうも微妙に形が違うものが出てきます。ただし、お互いの結晶を向かい合わせてみると、ピッタリ同じ。まるで鏡に映した像と本物の関係。つまり右手と左手の関係に似ています(対掌性:たいしょうせい))。
よく調べてみると、これまで調べていた酒石酸塩の結晶の形は、ある同じ向きの非対称性を持っていたのに、酒石酸を結晶化させると、これまでの酒石酸塩と同じ方向で非対称性を持っているものと、その反対側に非対称性を持つものが出てきたのです。パスツールは、顕微鏡とピンセットでこれらをより分け、それぞれの旋光性を調べると一方の結晶は右側方向へ偏光させ、もう一方の結晶は、反対方向へ光を偏光させました。そして、これらは結晶化したときに同じ量だけできてきたのです。つまり、偏光度が左右逆のものが同じだけ存在しているので、その性質が打ち消しあい、ここを通った光は、偏光されないという結論に至ったのです。これはとても大きな発見で、その後の構造化学に対して大きな進歩を歩ませることになりました。
このように、同じ成分でできていながら、鏡に映した像と本物の関係にある分子をキラル分子もしくはエナンチオマーといいます。


図1.酒石酸塩のひとつ酒石酸ナトリウムアンモニウム塩の異性体


自然と人間
こういった分子は、たくさん存在し、身近なところでも、アミノ酸、そして糖類といったところでもキラリティ(対掌性)のある分子が存在します。
そしてこのように、キラルな分子がお互い等量存在するものをラセミ体といい、パスツールが見つけたような、旋光性を打ち消しあう性質を持っています。
他にも、鏡像体を持たない、異性体もありますがここでは割愛します。そして、自然界が作るものは、ほとんどといって良いくらいキラルなものなのに片方のエナンチオマーしか使われていないのです。
しかし、人間が合成すると必ず「右」と「左」のような関係の分子ができ、ラセミ体になります。19世紀当時パスツールは「人工合成で別々の型をつくり分けるのは無理だろう」と語ったといわれています。

ところが野依先生の発明は、それを解消する触媒を開発したことです。例えば、ハッカのにおい成分であるメントール合成。メントールも合成すると、やはり「右」「左」のような関係の分子ができて無駄が多かったわけですが、野依先生らが発明した触媒を使うと、必要とされる方の(−)−メントールしかできないという画期的なものだったわけです。



図2.メントール
左は香り付けで使われるメントール。右側は、においの弱いメントール。左側は、爽やかなミントの香りがするが、右側は、かび臭さを伴う。また、メントールによる独特の冷感を感じさせる閾値が、左が800ppbに対して、右側は3,000ppbが必要。



2009.9.23up (うちゅう2006.1号 加筆訂正)

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