湯川秀樹と大阪市立科学館

 大阪市立科学館は、かつて大阪大学理学部が創設された場に建っています。この地で、阪大理学部は世界に誇る数々の偉業を成し遂げました。湯川秀樹博士の中間子論はこの偉業を象徴するもので、1949年にノーベル賞が贈られました。日本で初めてのノーベル賞です。戦後間もないとてもつらい時代でしたので、この快挙は国民に希望と勇気を与える大ニュースとなりました。
湯川秀樹(後列左端)と阪大理学部のスタッフたち。

阪大理学部玄関。この跡地に大阪市立科学館が建っている。
 1934年、27歳の青年が、欧米の天才物理学者たちが想像もしなかった新粒子、中間子を予言しました。阪大講師、湯川博士の中間子論です。当時知られていた素粒子は、電子、陽子、中性子、の3種類だけでした。欧米の天才たちは、素粒子はこの3種類だけと信じ込んでいたので、中間子論は見向きもされませんでした。「あなたは新しい粒子が好きなのですね。」と揶揄すらされたので、湯川博士はとても悔しい思いをしたそうです。
 1937年に状況は一変します。中間子と思われる新粒子が発見されたのです。中間子論は一気に脚光を浴び、世界中の天才たちが競って中間子の研究を始めました。しかし、このとき発見された素粒子は湯川粒子とは全く別物であることが明らかになり、混沌とした時代が続きました。湯川博士が予言してから13年後、1947年、ついに中間子が発見されたのです。そして1949年、湯川博士は日本初のノーベル賞を受賞しました。
 湯川の中間子論は、自然界にある4つの力(重力、電磁力、弱い力、強い力)のうちの強い力の発見です。重力、電磁力、弱い力の発見は、それぞれ、ニュートンが万有引力の法則を、ファラデーが電気と磁気との関係を、フェルミが原子核のベータ崩壊の理論を提唱したことと言われています。強い力は陽子や中性子をとても小さな原子核の中(10-13cm)に閉じ込める力です。湯川博士は陽子や中性子をくっつける接着剤として中間子を予言しました。そしてその中間子は見事に発見されたのです。このように、湯川博士は歴史に残る大発見をしたのです。自然界に4つしかない力のうちの一つの発見で、この偉業は大阪市立科学館の建っている場所でなされたのです。くわしくは菅野礼司先生の「湯川秀樹の功績と湯川研究室の思いで」をご覧下さい。


日本数学物理学会誌に投稿した論文の草稿。この論文がノーベル賞受賞の対象となった。


「湯川秀樹を研究する市民の会」準備会の後で

 その大阪市立科学館では、「今や湯川を知るものはほとんどいない。中間子論発祥という由緒ある地で、湯川の物理、物理以外の業績(平和運動など)、生い立ち、思想・人柄、などを研究し、その成果を市民に伝えよう!」と、大阪市立科学館友の会有志が中心になって、湯川秀樹を研究する市民の会が発足しました。来年は湯川生誕100年、これを記念してシンポジウムを開催し研究成果を発表しようと張り切って毎月定例会を開いています。くわしくはホームページをご覧下さい。
 今年はプロにはまねのできない研究に挑戦です。多くの方の参加をお待ちしています。

写真は京都大学基礎物理学研究所のご厚意により、掲載許可をいただいたものです。