『科学談話室』の話題より
小 学 校 の 理 科
2003/05/11 話題提供
2003/05/29 最終更新
話題一覧


[danwa:0864] 小学校の理科
Date:Sun, 11 May 2003 16:59:39 From:Bi.Bi.
談話室の皆様、ご無沙汰してます。
Bi.Bi.です。

小学校で習う光合成について、ちょっと調査をしました。
光合成に関して、一般の人がどれぐらい知識を持っているかを簡単な聞き取り調査をしたのですが、 (女性およそ10人対象)結果は惨憺たるもので、 ほとんどの人が、葉緑素、光、・・・などと単語を並べて文章を作ろうとするだけでした。
この文章を作ろうとする行為から解釈すると、光で何かをする、というのだけは頭に入っているようで、 (光合成という文字からは当たり前かも) 「酸素を吸って二酸化炭素を出す」「太陽光で葉緑素を作る」などなど、酸素を作るを言えたのは半数もいな い、 でんぷんを生成することを言えた人は10人中一人だけ、でした。
とにかく、全ての人が、キーワードで文章を作ろうとする、 「太陽で、・・・・、酸素を・・・・・、あっ違う、二酸化炭素だ、二酸化炭素を・・・・、あれっ?葉緑 素????、ウーン、わかんない、なんでしたっけ?」というようなものです。
己の持っている概念を己の言葉で表現しようとしません。

聞き取りの最後に、光合成の説明に加えて、樹木が育ったり、石油の話や、芋や米や、森林伐採、二酸化炭素の 増加などの話をすると、「へー!」と目を丸くして関心を示します。

私は、これでは、小学校の理科教育がほとんど意味をなしていない、と思うのです。 穴埋め問題こなすこと、あるいはキーワードで作文すること、 一般に人々はこのように作文すること、それも間違いなく作文できることが重要なことと解釈しているのかもし れません。

資源のないわが国、こんな教育でいいのだろうか? とても不安になります。
世界的には我が国の教育水準は高レベルとの話もありますが、 本当に高レベルなのか、疑問を感じます。

みなさんは、どう思われます?

BiBi.



[danwa:0865] Re:小学校の理科(理科に限らない)
Date:Mon, 12 May 2003 13:15:37 From:apj
apjと申します。

 多分,足りないのは,「文章できちんとものごとのつながりを表現する力」 ではないかと思います。
 これを鍛えるには,小学校の間はとにかく国語をしっかりたたき込んで, そのあと,他の科目で記述式の問題をたくさんさせる,しかも資料から 議論させるような問題をやるということが必要なんじゃないでしょうか。

 知識が足りないのは,多分,理科だけじゃないです。社会科も似た ような状況じゃないでしょうか。



[danwa:0866] Re:小学校の理科(apjさま 賛成です)
Date: Mon, 12 May 2003 16:05:33 From:TKH
apjさま、ご意見拝読しました。(*^_^*)

>  多分,足りないのは,「文章できちんとものごと
> のつながりを表現する力」ではないかと思います。

 結局言語力の問題ではないか、というご意見に賛成 です。言語力が不足して理科や社会が良くできるとか 理科や社会はできないけれど言語力は十分ということ はありそうもないです。 (>_<)
>  これを鍛えるには,小学校の間はとにかく国語を
> しっかりたたき込んで,そのあと,他の科目で記述
> 式の問題をたくさんさせる,しかも資料から議論さ
> せるような問題をやるということが必要なんじゃな
> いでしょうか。

そう思います。ノーベル化学賞を受賞されたイギリ スのロビンソン博士と雑談する機会があったとき、イ ギリスの没落の一つの原因は、小学校で言葉をしっか り教えなくなったからではないか、とおっしゃってい ました。「そうですね、英語の小学校という言葉(グ ラマスクール)は、古典、すなわちギリシャ語かラテ ン語の文法を教えるところという意味だそうですね。 日本でも、幼児に中国の古典を暗記させるところから 教育を始めていました」と申し上げたら、それは賢い 方法だといわれました。

 実は、幼児からでは、遅いのかもしれません。下記 をご覧下さい。

http://www.yomiuri-you.com/you_a/mama/chie/ikuji/ehon/chie43_50.htm
http://home.att.ne.jp/sea/g100club/weekly84.htm

色々考えなければならないことが多いようです。

BiBiさまは、

> 世界的には我が国の教育水準は高レベルとの話もあ
> りますが、本当に高レベルなのか、疑問を感じます。

 と述べておられますが、
残念ながら、疑問の余地なく日本は低レベルのよう です。(上に紹介した熊谷さんの文章をご覧下さい。)

 BiBiさまの問題提起を発展させて、我々も活発に議 論しませんか。( ^0^ )/

(^^)/~~~



[danwa:0867] Re:小学校の理科(apjさま 賛成です)
Date:Mon, 12 May 2003 19:26:44 From:apj
タイムリーな記事がYahooに出ていました。

> 残念ながら、疑問の余地なく日本は低レベルのよう
>です。(上に紹介した熊谷さんの文章をご覧下さい。)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030512-00000099-kyodo-soci

Yahooは記事URLが移動してまうこともあるので,内容も貼っておきます。
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記述式問題に目立つ無解答 小中生、表現・思考力に課題

 文部科学省は12日、小5−中3生を対象に実施した全国規模の学力調査の分析結 果を公表した。自分の考えをまとめ記述式で解答する問題に対して無解答が多く、表 現力や思考力が十分身に付いていないことを示した。算数・数学は思考力、判断力が 不足している。
 分析した国立教育政策研究所は「明確な原因は不明」としている。遠山敦子文科相 は教育課程や指導方法などについて近く中教審に諮問、検討を求める。
 分析の結果、英語の「書く」力を問う設問では、正答率が事前の想定を上回ったも のがなかった。自分の宝物を4つ以上の文で説明する中3の問題は無解答が41%に 達した。
 中学数学では、無解答が4人に1人以上の割合だった33問のうち22問が記述式 問題だった。
 小5−中1では、数学的思考力をみる問題の半数以上で事前に想定した正答率を下 回り、中学は記述式や文章問題で解答率が想定を下回った。(共同通信)

[5月12日17時22分更新]
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[danwa:0868] Re:小学校の理科
Date: Thu, 15 May 2003 23:32:53 From:Bi.Bi.
apjさん、TKHさん、コメントありがとうございます。
Bi.Bi.です。

言語能力の不足とのご意見をいただいたのですが、
それも重要な問題とも思いますが、
もうひとつしっくりこなくて、いろいろと考えてました。

毎日の生活で使う概念なら、脳の中に定着するでしょうが、 実生活とかい離した概念は定着せず、 すぐに消えてしまうのではないでしょうか?

ヨウ素でんぷん反応で 「本当に光ででんぷんができている!!」という感動があれば、 大人になって「光合成ってなに?」と問われたときに、 「植物は太陽光で栄養を作ってる。」程度のことは出てくるだろうし、 この知識で、大人になって得た多くの知識がリンクできるのだろうと思います。

では、どうしたら、「本当に光ででんぷんができている!!」という感動を与えることができるのでしょうか?
「植物は太陽光で栄養を作ってる。」というのは本当か?、 というような実験ための動機をちゃんと与えることだと思います。

つまり、光合成を小学生が学習するには 「植物は太陽光で栄養を作ってる。」という概念(仮説)を熟成させてから、 ヨウ素でんぷん反応で、それを実証するのが理想ではないかと思います。

授業で感動がなかった、感動を与えるための準備がなかった、動機が希薄であった、 というのも、本質的なことかな、と学校現場のことを知らない素人が無責任に考えました。

ちなみに私の場合は、中学生のときの実力試験でヨウ素でんぷん反応が出題されて、 なんのことかさっぱり分からなかったのを記憶しています。

Bi.Bi.



[danwa:0869] Re:小学校の理科
Date: Fri, 16 May 2003 01:03:33 From:TKH
Bi.Bi.さま レス有り難う存じます。

> 言語能力の不足とのご意見をいただいたのですが、
> それも重要な問題とも思いますが、
> もうひとつしっくりこなくて、いろいろと考えてました。

  失礼しました。言語能力も重要、あるいは、まず言語能力 を身につけてと申し上げたかったので、言語能力だけでい いという印象をお与えしたのだとすれば、それは、私の言 語能力の不足のせいです。m(_ _)m

私の小学校の先生は、今でも頭が上がらない、聡明で、熱 心な方でした。光合成の話は、こんな実験を普通教室でし ました。
1 ご飯粒にヨードチンキをたらす。
2 ご飯粒を水の中で、よく潰してヨードチンキをたらす。
3 ジャガイモをすり下ろして、ヨードチンキをたらす。
4 同じく、水に入れて、底にたまった粉にヨードチンキ。

ご飯、ジャガイモなどにはデンプンというものが含まれて いる。これは、大切な栄養で。人間は、自分ではデンプン を作れないので、お米や麦やジャガイモにデンプンを作っ てもらって、それで生きている。人間だけでなく、動物は 皆、植物を食べるか、植物を食べている動物を食べて生き ている。植物は、水と肥料と日光からデンプンを作って、 蓄えている。

こんなお話をされました。光合成という言葉は使われなか ったと思います。光合成そのものの実験もされなかったと 思います。昭和23年か24年のことです。手近な材料で 出来る実験とお話でしたが、とても利口になったような気 がしました。
先生は、正規の師範学校卒業生が払底していた終戦直後に 高等女学校卒業後、半年の促成養成で教師になられた方で す。毎年1回クラス会をやりますが、死亡・行方不明を除 き47名中、昨年は28名出席しました。
 国語も算数も理科も社会科も大事ですが、65歳になっ たも先生を囲んで集まれるような学級(学級崩壊の逆)も 大切だと思います。
 なお、我々の小学校は、普通の市立校です。

 余談の長話お許し下さい。m(_ _)m



[danwa:0870] Re:小学校の理科
Date:Sat, 17 May 2003 22:27:52 From:Bi.Bi.
TKHさん、レスありがとうございます。

> 失礼しました。言語能力も重要、あるいは、まず言語能力
> を身につけてと申し上げたかったので、言語能力だけでい
> いという印象をお与えしたのだとすれば、それは、私の言
> 語能力の不足のせいです。m(_ _)m

とんでもないです。
私の方が言語能力が不足していて、 一面的な読み方をしたのだと思います。

> がしました。
> 先生は、正規の師範学校卒業生が払底していた終戦直後に
> 高等女学校卒業後、半年の促成養成で教師になられた方で
> す。毎年1回クラス会をやりますが、死亡・行方不明を除
> き47名中、昨年は28名出席しました。
>  国語も算数も理科も社会科も大事ですが、65歳になっ
> たも先生を囲んで集まれるような学級(学級崩壊の逆)も
> 大切だと思います。

すばらしいですね。うらやましいかぎりです。

私の方は、小学校の高学年時はほとんど楽しい思い出はありません。
妙な競争意識をあおるクラスワーキングで、 テストで点のとれる子に優越感を、 点のとれない子に劣等感を与えていたと思います。
私は、体が弱く点がとれないので、 級友から何を言ってもほとんど認められることがなく、 おもしろくない毎日を送っていました。
そんなこともあってか、卒業してからその時の担任の先生に会ったこともないし、 クラス会は開かれたことがありません。

こんな学級では、まともな学習の動機が与えられないようで、 その後の成長がよろしくないようです。 そんなこともあってか、その時に高得点をとっていた級友で、 その後伸び悩みというのがたくさんいました。
私の場合は昭和41年から43年の普通の町立小学校です。

ところで、TKHさんの場合と現代との違いを考えたのですが、 子供の実体験の極端な減少というのも、 現代の教育を困難にしているのではないかと思います。
たとえば、昔の子供は、田植えから稲刈りまで米が育つのを 自分の目で見て知っていたのですが、 今の子供はそのような光景をほとんど知らない。 最近困っていることなのですが、 「ろうそくの炎はすすが光っている。」と説明したいのですが、 すすを知らないのです。 その他、いろんな例が思い浮かぶことと思います。 このような実体験の不足を考えると、 現代の子供が昔の子供と同じだけの知識量を習得する、 というのは不可能ではないか、と考えるに至りました。
子供の遊びの文化を育てるというのも、 現代教育の重要な課題だろうと思います。

Bi.Bi.



[danwa:0871] Re: 小学校の理科
Date:Sun, 18 May 2003 16:09:20 From: Ando S.
みなさん、こんにちは。Ando S.です。

Bi.Bi.さん提起の問題は、一義的な答えを出すことがなかなか難しいように 思います。
ですから、とりあえず、私自身の体験的なことから私の問題意識をお話した いと思います。ちょっと長くなりますがお付き合いください。

私の長女(昨年、大学を卒業)が小学校に入学してしばらく後のことです が、算数の宿題を見てやっていて、「そこは、こんなやり方をしたらいい よ。」と言ったら、長女が「(先生の教えた方法と違うから)そんなことし たら、先生にしかられる。」と言ったのです。これには、私はショックを受 けました。

長女は、小学校前はずっと保育所に通っていました。保育所時代には「先生 にしかられるから」というようなことは一度も言ったことがないのに、小学 校に入ってからわずかの間に「先生にしかられるから」ということで自分自 身を規制しようとしているのです。これは、ショックでした。学校は子ども から自由闊達さを奪っているのかという思いと同時に、そのような学校と教 師に言いようのない不信感がわいてきました。また、そういう場に子どもを 託さざるを得ないことに、どうしようもない苛立ちをおぼえました。

私自身の小学校時代は、なかでも、5年と6年のときは、Bi.Bi.さんとは逆 に、とても思い出深いものです。5年の時の担任の先生とは、以来、今日に 至るまで互いの近況を記した年賀状の往復が続いています。このときのクラ スは、55人で、それを7、8人ぐらいを単位とした班に分け、自分たちのこと はその班の中で討論し、それを全体にもちよるといったクラス運営をしてい ました。いわば「自治」といったことを、これによって学んだと思います。 また、ガリ版の学級新聞を、自分たちで編集発行していました。いずれも、 自分で考えるということ、自分たちで創造するといったことの訓練になった ように思います。少なくとも、価値観としてそのことが大切だと今でも思っ ています。授業も、教科書に書かれていないことが関連知識として話題に なったりもしました。それがまた、私にとっては楽しいものでした。何故か と言えば、自由に考え、想像し、空想することができるからです。

さて、きょうの私の論点ですが、私の小学校時代と長女のそれとの比較から 類推したとき、どうも学校というものの中身が私の時代から大きく変質して いるのではないかと危惧しています(ちなみに私はいわゆる団塊の世代で す)。つまり、学校教育が管理的になり、一元的な同質性が追求されている のではないかという危惧です。

科学的な真理は一つしかないとしても、その真理にいたるためのものの見方 や考え方は多様であると私は思います。その多様性は、一人ひとりの持つ経 験や個性であると同時に、大きくは人々の育った社会の歴史や文化に依拠す るものではないかと考えています。そしてその多様性から、あるものがさら に深層の真理を発見することに寄与したりするのではないでしょうか。私 は、個性を抑え、自由な発想を排除することが根底にあれば、どのような授 業もおもしろく興味あるものにはならないと思います。自由な発想をはぐく む工夫こそが、求められると思います。その場合大切なことは、子どもたち 自身に考えさせ、自由に発言させる機会をもつことではないかと思います。 そのようなときに発言される考えはきっとすべて正しいものでしょう。 「誤っている」としてもその実体は、考えをまとめる上で考慮した背景や要 素、知識の不足でしょう。そのことに子どもが気がつけば、学ぶことが楽し くなるのではないかと思うのです。

いまの学校教育の問題点は、どんなことも答えは一つで教科書に書いてある ことや先生の言ったことだ、その答えを導く考え方はこういうものだと一元 的に教えていることではないかと、体験的に想像します。どのような教え方 をしようとも、それを理解する頭のいい子、できる子は必ずいると思いま す。問題は、しかし、その「できの良さ」の中身でしょう。たとえば、官僚 といわれる人は、そのような「できる」子どもたちの成長した姿の一例で しょう。しかし、官僚から受ける印象は、人間的に私には魅力のないもので すし(まったく個性が見えない)、道徳的にも社会常識的にも否定的なこと をやっている人がたくさん新聞紙上をにぎわしているのを見るたびに、教育 とは何かと考えさせられます。


[danwa:0872] Re: 小学校の理科
Date:Mon, 19 May 2003 10:49:44 From: apj


>みなさん、こんにちは。Ando S.です。


>いまの学校教育の問題点は、どんなことも答えは一つで教科書に書いてある


>ことや先生の言ったことだ、その答えを導く考え方はこういうものだと一元


>的に教えていることではないかと、体験的に想像します。どのような教え方


>をしようとも、それを理解する頭のいい子、できる子は必ずいると思いま


>す。問題は、しかし、その「できの良さ」の中身でしょう。たとえば、官僚


>といわれる人は、そのような「できる」子どもたちの成長した姿の一例で


>しょう。しかし、官僚から受ける印象は、人間的に私には魅力のないもので


>すし(まったく個性が見えない)、道徳的にも社会常識的にも否定的なこと


>をやっている人がたくさん新聞紙上をにぎわしているのを見るたびに、教育


>とは何かと考えさせられます。



 私は少し違った見方をしています。

 官僚全部を擁護するつもりもないですが。

 まず,もし官僚がみんな独創性を追求したら,実際問題として役所は機能 しなくなります。官僚の個性が見えるようでは困るんじゃないですか。誰が なってもある一定以上の技術のある人がやれば同じ処理ができるシステムで ないとものごとが進まないし,社会が混乱するだけじゃないでしょうか。
 普通に仕事をしている官僚もいっぱいいると思います。もっとも,管理 したがる方向,仕事を増やす方向に走りがちな構造は考え直す必要がある でしょうけど。
 官僚というのは,自分に興味のないことであってもそれなりに資料 を読んだり書いたりして仕事を処理しなければならないので,そこそこ の日本語の読み書きの技術が必要です。「できる」というのは要するに 情報処理能力を意味しますが,これは官僚に必須です。特に中央官庁だと 東大法学部卒なんて山ほど入っていますけど,法治国家で行政を安定させる には法律の技術を知ってないと実際に不可能(対応が安定しなくなる)ので 当たり前といえば当たり前です(まあ,ある水準を満たしていれば大学名に こだわる必要もないでしょうけどね)。
 水準を満たしている人を集めるのは実は,大変そうです。司法試験予備校に 伊藤塾というのがあるんですが,塾生には,てにをはの使い方から教えない とだめだそうです。多分,それなりにやる気もあって大量の日本語(法律文書) ととりくむつもりの人が集まってるはずですが,それでも日本語が怪しい らしいです。


#こういう実感を持っているのは,文書をきちんとおさえずに処理をやった
#大学の事務官を(間接的に)相手にして,異議申立だ提訴だと,年末年始を
#はさんで相当やりあったからです。
#法学専門の先生が出てきてやっと交渉成立に至った。

 教師に一元的な見方をする人が多いとしたら,学級委員的優等生の割合が 多いことによるのではないでしょうか。 教育学部(あるいは他学部であっても,少なくとも大学・短大)で教職 課程を履修して教員採用試験を通らないとなれないわけですが,ここに 至るまでに,優等生以外はふるい落とされるってことはないですかね?


[danwa:0873] Re: 小学校の理科
Date:Mon, 19 May 2003 16:47:03 From: apj


>しょう。しかし、官僚から受ける印象は、人間的に私には魅力のないもので


>すし(まったく個性が見えない)、道徳的にも社会常識的にも否定的なこと


>をやっている人がたくさん新聞紙上をにぎわしているのを見るたびに、教育


>とは何かと考えさせられます。



 議論の前提として,「官僚の仕事ぶりからうける印象」と解釈しましたが, 「官僚をやってる人の私生活」に至るまで人間的魅力を感じることがない というのなら,それは全く別の議論になると思います。


[danwa:0874] Re: 小学校の理科
Date:Mon, 19 May 2003 18:28:27 From: 浜口
 談話室のみなさん,おひさしぶりです.  浜口です.

   教育についての話題,興味深く読ませていただいています.
 私も議論に参加したいのですが,いまちょっと忙しくて.A^_^;

  (Ando S.さん)


>しかし、官僚から受ける印象は、人間的に私には魅力のないもので


>すし(まったく個性が見えない)、道徳的にも社会常識的にも否定的なこと


>をやっている人がたくさん新聞紙上をにぎわしているのを見るたびに、教育


>とは何かと考えさせられます。



(apjさん)


>まず,もし官僚がみんな独創性を追求したら,実際問題として役所は機能


>しなくなります。官僚の個性が見えるようでは困るんじゃないですか。




   ここはapjさんの言われるとおりだと思います.
 
 むしろ,Ando S.さんのおっしゃりたかったことは“官僚から受ける印象” ではなくて“政治家から受ける印象”なのでは?


[danwa:0875] Re: 小学校の理科
Date: Mon, 19 May 2003 19:12:53 From: 浦田
浦田です。
apjさんこんにちは、


>  まず,もし官僚がみんな独創性を追求したら,実際問題として役所は機能


> しなくなります。官僚の個性が見えるようでは困るんじゃないですか。誰が


> なってもある一定以上の技術のある人がやれば同じ処理ができるシステムで


> ないとものごとが進まないし,社会が混乱するだけじゃないでしょうか。



 たいした混乱ないと思います。

 現実的には、二つと同じ事件は起こらないわけで、その対処方をいくら過去の知識 や本に頼ってもだめな場合が多いです。世の問題の大多数は、人の感情、価値観、未 来を想像できれば大事に至らず解決します。

 解答が後のページに用意されてる受験勉強ばかりやってると、知識も行動規範も、 さらに自分の感情まで書物やテレビに頼り、創造機能を持たない脳が育ちます。小学 生に詰め込みやると独創の喜びがわからなくなりそうな気がします。記憶できること が人に認められる手段であると 刷り込まれるわけです。

 少々答えが間違っていても、先生とは違う解決方法を編み出そうとしたことは誉め るべきだと思います。答えを教えるより、その一点だけ誉めてるほうがましかもしれ ません。先生が頑張れば頑張るほど逆効果といえば言いすぎかな。とにかくガマンが 大切かもしれません。

 いずれは独創を形にするとき、道具である学校の勉強が必要だと気付くはずです。

 思いがけない市民の苦情、生徒のアクション等に、逃避的、否定的、高圧的アク ションで対応するのは、想像力欠如に他ならないと思います。 (あまりにも基本的な計算方法の間違い誤解は正すべきかな)

 私が受けた公務員研修では創造、業務改善、こそ仕事であり、繰り返し業務は仕事 ではない と教えていました。それを分かっていない人を民間から見ると非難したく なりますよね。


[danwa:0876] Re: 小学校の理科
Date: Mon, 19 May 2003 20:04:46 From: apj


>浦田です。


> 現実的には、二つと同じ事件は起こらないわけで、その対処方をいくら過去の知識


>や本に頼ってもだめな場合が多いです。世の問題の大多数は、人の感情、価値観、未


>来を想像できれば大事に至らず解決します。



 甘いと思います。
 人の感情は人によって異なるし,価値観も違う状況で未来を想像する と,逆に混乱するだけのように思います。
「未来を想像」するときであっても,ある基準なり方法論なりが必要で,その 部分は官僚の仕事処理のノウハウじゃないでしょうか。



> 解答が後のページに用意されてる受験勉強ばかりやってると、知識も行動規範も、


>さらに自分の感情まで書物やテレビに頼り、創造機能を持たない脳が育ちます。小学


>生に詰め込みやると独創の喜びがわからなくなりそうな気がします。記憶できること


>が人に認められる手段であると 刷り込まれるわけです。



 これは本当ですか?2重の意味でとても信じられません。

 まず,自分の義務教育の頃を振り返ってみると,いくら先生が詰め込もうと したところで,クラスの何割かは悪びれずにさぼってました。宿題忘れて 遊んでたり,その他もろもろのことをしています。もちろん,先生の覚えの めでたい人もいますけど,それはそれで1つの個性でしかない。だから, そんなに効率よく「創造機能を持たない脳」を育てることなど,たとえその意図 でやったとしても無理な話では。
 受験勉強ばかりまじめにやるなんてのは,普通の公立の学校ならむしろ少数派 じゃないんですか。一部の進学校には,受験勉強ばかりする人が集中しています が,生徒全体からみてその割合は決して高くないと思います。
 いやまあ,試験前だけまじめにやる人は結構いますけど,短期間ならそんなに 影響するとも思えない。

 次に,受験勉強ばかりまじめにやっているとされているグループのうち, 「創造機能を持たない脳」になる人はやっぱりそんなにいないのでは。 というのは,受験勉強が得意な人というのも確かに存在しますが,そういう人 はもともと得意なので,受験勉強が苦にならないし,余裕を持ってやって いるように見えます。暗記が得意だとそんなに努力しなくても覚えられるから 逆に余裕ができて勉強以外にいろんなことができる。

 「創造的機能を持たない脳」ってのがどんなのか知りたいです。 大発見するような人はそもそも昔からまれだし,小さな創意工夫ならみんな それなりにやって生活しているし。

 人間の創造性がたかが受験勉強ごときで影響されるとは思えないです。 受験勉強で消えるような創造性は本物じゃないのでは?


> 少々答えが間違っていても、先生とは違う解決方法を編み出そうとしたことは誉め


>るべきだと思います。答えを教えるより、その一点だけ誉めてるほうがましかもしれ


>ません。先生が頑張れば頑張るほど逆効果といえば言いすぎかな。とにかくガマンが


>大切かもしれません。



 この点には同意します。


> いずれは独創を形にするとき、道具である学校の勉強が必要だと気付くはずです。



 が,これは必ずしもそうではない。
 本人は独創を形にしているつもりだが,学校の勉強が必要だとまったく気づかず 結果としてトンデモに走るって例なら山ほどありますので。

 実は,このトンデモは社会的にもコストがかかる場合があります。 変な発明品だの装置だのが民間の分析会社に持ち込まれたりして,人手 と時間をかけてだめだという結論を出さなければならない場合もあるので。 独創のつもりで基本的なことを知らないから,何年かしたらまた別の人が同じ ような形で間違いを持ち込んでくる。そのころには別の人が試験業務をして いてまた類似の測定に時間と人件費が・・・。


> 思いがけない市民の苦情、生徒のアクション等に、逃避的、否定的、高圧的アク


>ションで対応するのは、想像力欠如に他ならないと思います。


>(あまりにも基本的な計算方法の間違い誤解は正すべきかな)



 官僚に限った問題じゃないんですね。民間企業にだってこういう アクションをとる人がたくさんいますよ。むしろ,そういうアクションで 官僚に向かって理不尽な要求をするケースがけっこうあるんじゃないですか。

 想像力の欠如ではなくてリーガルマインドの欠如が問題だと,私には思えます。 日本の教育ですっぽり抜けてる部分じゃないかと思うんですが。



> 私が受けた公務員研修では創造、業務改善、こそ仕事であり、繰り返し業務は仕事


>ではない と教えていました。それを分かっていない人を民間から見ると非難したく


>なりますよね。



 批判はともかく,非難されても何とも言いようがありません。私は私なりに 官僚の存在意義や仕事をプラスに評価しているつもりなので。
 ただ,こんな内容の教育が可能なのは,そのときまでに,たとえ繰り返しで あっても官僚が安定した仕事をしてきたという面があって,ただそれも行き過ぎる と硬直化するという話じゃないんでしょうか。
 仕事自体が安定しないほど想像や改善に走っていたら,とてもこんな教育は できなかったんじゃないですか。

 創造性を発揮して結果として業務をうまくまわして制度を機能させるという ところが官僚の腕の見せ所だと思ってはいけませんか?やってくる案件に 全く同じ物はないというのならば。


[danwa:0877] Re: 小学校の理科
Date: Tue, 20 May 2003 00:42:13 From: Ando S.
Ando S.です。

まず、真先に言いたいとことは、私は官僚のことを私の問題意識として提起 しているのではないということです。私の問題意識はあくまでも、Bi.Bi.さ んの提起しした「小学校の理科」教育です。正確に言えば、私の体験にもと づく理科に限らない全般的な問題意識です。

しかし、官僚について私のイメージを述べた部分が思わぬ関心を呼んだよう なので、少しそれについてのコメントをさせていただきます。

[danwa:0872]apjさん


> まず,もし官僚がみんな独創性を追求したら,実際問題として役所は機


>能しなくなります。官僚の個性が見えるようでは困るんじゃないですか。


>誰がなってもある一定以上の技術のある人がやれば同じ処理ができるシス


>テムでないとものごとが進まないし,社会が混乱するだけじゃないでしょ


>うか。



個性あるいは独創性を発揮することを、みんながてんでバラバラ、かって気 ままに行動することだと誤解されているのではないですか?私は、多様性 と、それと対立する概念である統一性の関係を考えているのです。多様性が あってこそあるいは保障されてこそ、本当の統一性があるのではないかと考 えています。

[danwa:0873]apjさん


> 議論の前提として,「官僚の仕事ぶりからうける印象」と解釈しました


>が,「官僚をやってる人の私生活」に至るまで人間的魅力を感じることが


>ないというのなら,それは全く別の議論になると思います。



くりかえしますが、私の問題意識は、官僚のことではありません。「官僚の 私生活」を私が知るよしもありませんが、報道される不祥事から垣間見える こともあります。しかし、それとても実際には想像の域を出ないものでしょ う。そう自覚しています。「仕事ぶり」というのも、ちょっと違います。日 常的に官僚と接触しているわけでもないので、「仕事ぶり」もわかりませ ん。

私の官僚に対する意識というのは、最近の官僚の不祥事の多発(スキャンダ ル的なこともそうですし、薬害エイズ問題なども含みます)、その不祥事の 内容が庶民の感覚とはかけ離れていて特権意識から出ているように思えるこ と(問題になった官僚が競走馬を買っていた(飼っていた)ことが暴露され たことがあったでしょう)、官僚として就職することになった新卒者たちの 発言をTV番組で聞いたときの感想、日常的に報道されるさまざまな政治的問 題・課題についての官僚の対応や発言、官僚になった私の小・中学時の同級 生の学校時代のふるまい、などなどから醸成されています。

また、現実の政治においても、政官財の癒着が問題になっていることはご存 知でしょう。問題になっているということは、この場合、批判されていると いうことでもあります。しかも、日本の政治の基本にかかわる問題としてで す。どうしてそのようなところに「優秀なる人たち」である官僚が枕を並べ るのですか。

[danwa:0872]apjさん


>                                         法治国家で行政を安定させる


>には法律の技術を知ってないと実際に不可能(対応が安定しなくなる)の


>で当たり前といえば当たり前です



技術だけではだめだと思います。もっとも大切なのは、庶民の生活感覚を しっかり理解し共有していることだと思います。そのうえでの、技術です よ。日本の裁判においても陪審制度を導入しようという議論は、このような 問題意識から出ていると私は理解しています。法律の技術を知らない一般の 人が裁判の審理に参加したら混乱するのでしょうか。だとしたら、こんな議 論は出てくるはずもないと思うのですが。私は、官僚にも普通の市民の生活 感覚の共有が求められると思います。しかし、現実には多くがそうはなって いないように見えます。ここが、官僚についての私の基本的問題意識ともい えます。

[danwa:0874]T.Hamaguchiさん


> むしろ,Ando S.さんのおっしゃりたかったことは“官僚から受ける印


>象”ではなくて“政治家から受ける印象”なのでは?



違います。政治家は、学歴がなくても実力があればなれるでしょう。しか し、官僚は、学歴でしょう。しかも、中心は東大でしょう。すべてではない にしても、大筋はそういうイメージがあるでしょう。
私には、やはり、官僚といわれる人は小学校から大学を通じて「優秀」で あった人というイメージがありますから、政治家とは区別して話をしている つもりです。

さて、本題に戻りましょうよ。私は、子どもたちに自由な発想を促す工夫が 必要だと、体験的に考えていると報告しました。また、学校の現実の場面で は、それとは逆の管理的、画一的なことが進められているのではないかとい う危惧を感じていると報告しました。これについてコメントをいただければ ありがたいです。


[danwa:0878] Re: 小学校の理科
Date: Tue, 20 May 2003 10:14:54 From: apj
じゃあ,本題に戻す方向・・・・になってるかな?。


>個性あるいは独創性を発揮することを、みんながてんでバラバラ、かって気


>ままに行動することだと誤解されているのではないですか?私は、多様性


>と、それと対立する概念である統一性の関係を考えているのです。多様性が


>あってこそあるいは保障されてこそ、本当の統一性があるのではないかと考


>えています。


 この部分は具体的にどういうことをイメージして書いておられるのかが よくわかりません。
 なので質問したいです。この文脈での独創性とはどういうものでしょうか? 独創性の定義が違っていると,今後の話もかみ合わないと思うので。

 私の認識では,「独創性」は「みんながてんでバラバラ、かって気ままに 行動すること」とは結びついていなくて,「一歩間違うと内容がトンデモに なる可能性」と結びついているんですよ。これは最後に書きますね。


>たことがあったでしょう)、官僚として就職することになった新卒者たちの


>発言をTV番組で聞いたときの感想、日常的に報道されるさまざまな政治的問


>題・課題についての官僚の対応や発言、官僚になった私の小・中学時の同級


>生の学校時代のふるまい、などなどから醸成されています。


 そりゃ,報道されるとあっては,自分の組織に都合の悪いことは 言えないでしょう,普通。会社員に自社のことについてインタビューした って,その立場を反映した内容が返ってくると思いますよ。
 組織の論理が優先するということ自体が問題なら,それは何も官僚に 限った話ではない。
 そういうことも含めて,組織自体の拘束力の強さを認識していくあたりが 「想像力」の発揮のしどころだったりしませんか?で,そこが問題だという ことであれば,教育の管理の問題にもつながっていくと思うんですね。


>また、現実の政治においても、政官財の癒着が問題になっていることはご存


>知でしょう。問題になっているということは、この場合、批判されていると


>いうことでもあります。しかも、日本の政治の基本にかかわる問題としてで


>す。どうしてそのようなところに「優秀なる人たち」である官僚が枕を並べ


>るのですか。


 制度上与えられた決定権を個人のものと勘違いしたからだ,という のは説明になりませんか?

 官僚だと特に国民の関心があるから,派手な勘違いは報道されて目立つ わけですが・・・。同じ事を民間企業がやってもそんなに目立たないの では?官・民でやると贈収賄事件に発展するようなことでも,民・民なら 判断基準が違うわけで。だから実は,制度上やれることを個人の力と 勘違いする人ってのは,民間にも相当数いるんじゃないかと私はみています。
 だから,「官僚が枕を並べる」ことが問題なんじゃなくて,個人の力 の範囲を正しく認識させるということがうまくいってない教育の問題と して考えるべき話じゃないでしょうか。

 ついでにいうと,癒着をそそのかしているのは圧倒的には産の方だと 思うんですが,官僚や政治家に対して何であれば要求してもいいのか? という認識を欠いた産のトップが大量発生している現実だって,十分 問題じゃないでしょうか。報道されてはいても実は官の方がまだまし, ってオチが待ってそうな気もしますよ。


>技術だけではだめだと思います。もっとも大切なのは、庶民の生活感覚を


>しっかり理解し共有していることだと思います。そのうえでの、技術です


>よ。日本の裁判においても陪審制度を導入しようという議論は、このような


>問題意識から出ていると私は理解しています。法律の技術を知らない一般の


>人が裁判の審理に参加したら混乱するのでしょうか。だとしたら、こんな議


>論は出てくるはずもないと思うのですが。私は、官僚にも普通の市民の生活


>感覚の共有が求められると思います。しかし、現実には多くがそうはなって


>いないように見えます。ここが、官僚についての私の基本的問題意識ともい


>えます。



 一般の人が審理に参加したら混乱するとは思わないけど,参加する 一般の人には,それなりにちゃんと裁判資料を吟味して考えてもらうこと は必要になります。それができれば混乱はしないでしょう。

  「庶民の生活感覚をしっかり理解し共有」は必要ですが,判断の基準が これに流れると,今度は恣意的判断と紙一重になりそうで私は嫌です。

 何でこんなところにこだわってるかというと,最近いろんな場所で 引っかかるからです。銀行でも郵便局でも他の会社でもいいんですが 「こうなっています」という説明を受けたときに「その根拠は何か?」 ときくと,説明できない人が多いんですね。根拠が法律なのか規則なのか 社内規則で決めてるのか現場の都合でうまくいくように決めたのかで, その後の交渉の仕方が全く違うんですが,そのことを認識していない。
 だから,必要最低限の(法律も含めた)ルールとのつきあい方の部分が まったく欠落しているんじゃないかと疑うことになるんですよ。仕事で やっていてこれですから,仕事でやってない「庶民」にはそういう感覚 が備わっていてさらにそれを庶民の生活感覚とうまくマッチングさせる 力がある例ってのは,もっと少ないんじゃないかと思います。
 多分,教育の段階で抜けてるんじゃないかと。


>さて、本題に戻りましょうよ。私は、子どもたちに自由な発想を促す工夫が


>必要だと、体験的に考えていると報告しました。また、学校の現実の場面で


>は、それとは逆の管理的、画一的なことが進められているのではないかとい


>う危惧を感じていると報告しました。これについてコメントをいただければ


>ありがたいです。



 教師個人の素質であれば,どういう採用をするかという問題になります し,教師への管理が強くて問題だということなら,教育委員会をどうするか という話になります。並行して考えてもいいと思います。

 それで,一番最初の独創性に戻りますけど,うっかり自由にしておくと トンデモ話に突入する可能性があるんですね。

 最近の「教育技術法則化運動」では、教育方法をいろいろ工夫しよう ということで,科目や テーマごとにいろんなアイデアが蓄積されています。子供達に自由な発想を させようということだって考えているようですよ。
 でも,道徳と総合科目の授業で,「水にありがとうと書いて見せると結晶が きれいになる」ってトンデモ話を堂々とやってます。こういうのを見ると,弊害は あっても画一的教育で教師をしばっておいた方が内容が安全という点では まだましだったんじゃないかとさえ思いますね。他にも,EM菌の話も紛れ 込んでいます。内容の独創性に教師の裁量権を発揮してもらうと,とたんに こういう話もはいってくるわけで。授業では,ちゃんと子供達に自由に発言 させていたりしますね。

 もちろん,「新しい科学の教科書」なんかを作ってる,独創的かつまともな 先生たちも多数いるわけで,こっちは学内管理職をどう説得するかということが 問題になってる模様。

 画一の弊害を承知の上でトンデモ話が入らないようにする方がいいのか, 変な話が授業に紛れ込むリスクを受け入れるかわりに独創性を重視する 方にいくのか,難しいところですね。学年によっても両者のウェイトは 変わるでしょうけど。

 と,とりあえず思いつく具体例を出してみました。Ando S.さんの思い描いて おられる「子どもたちに自由な発想を促す工夫」「管理的、画一的なこと」 とはどんなものでしょうか?独創の内容自体がトンデモにいかないように 何らかの制限なり指導が必要だと思いますが,どうやって実現したらいいと お考えでしょうか?


[danwa:0879] Re: 小学校の理科
Date: Tue, 20 May 2003 16:37:24 From: TKH
TKHです。少し話を、「小学校の理科」に戻します。
といっても、子供たちが小学生だったのは遙か昔です し、私自身は国民学校に入学した世代です。小学生の 教育に携わった経験もありません。
ですから、現場から遊離した観念論やあるべき論に走 る危険性があります。

そこで、米国の小学校の理科の教科書について検索してみました。但し、さし当たり日本語の情報 だけを検索しましたら、「全米科学振興協会(AAAS)の専門家が米国の教科 書の 記述を調べたところ、たくさんの間違いが見つか った」という記事を見つけました。
2002年11 月4日のCNNニュースだそうですが、原文は見つか りませんでした。

各論はさておき、「脈絡のない記述に満ちた」教科書はひどいで すね。

どなたか、日本の教科書について、ご紹介なり、ご意見 のご披露をお願いできませんか。


[danwa:0880] Re: 小学校の理科
Date: Wed, 21 May 2003 01:19:40 From: Ando S.
apjさん、こんばんは。Ando S.です。

ちょっと困りましたね、apjさんにお付き合いしていると、議論がとんでも ない方向に行きそうです。この場合、「とんでもない方向」というのは、私 の希望しない方向ということです。それがどこに行くのかわからないという おそれを感じるから、「とんでもない方向」です。だから、申し訳ありませ んが、私としては、本題以外にこれ以上深入りしたくありません。

ただ、「独創性」については、本題とも関係ありそうなので少しコメントし ます。

[danwa:0878]apjさん


>なので質問したいです。この文脈での独創性とはどういうものでしょうか


>?独創性の定義が違っていると,今後の話もかみ合わないと思うので。


「定義」と言われると、まごつきますね。それと余分なことですが、「違っ ていると」というのは、「間違っていると」ということでしょうか、それと も、「apjさんと私の認識が異なっていると」ということでしょうか。後者 だということを前提に述べます。

「独創」について辞書を調べると、「模倣によらないで、自分の考えで物事 をはじめること。自力でこれまでにないものをつくり出すこと。」(国語大 辞典(新装版)小学館 1988.)とありますが、基本的にはこういうことです ね。ただ、私のニュアンスとしては、この説明だけではちょっと足りなく て、主観的評価あるいは判断で「独創」になるのではなく、第三者による客 観的な評価、判断の結果として「独創」になるのではないかということを付 け加えたいと思います。言葉を変えれば、自己評価としてではなく、社会的 評価それも肯定的意味合いを含んだ評価として「独創」が言われるというこ とではないでしょうか。だから、「独創性」は見過ごされることもあるで しょう。
「個性」もやはり、社会的評価でしょうね。そして、その個性が否定的な評 価になれば、「変な奴」、「わがまま」といった否定的意味合いの言葉で言 われるようになるでしょう。

だから、apjさんがいわれる「独創」が「トンデモ話」になる問題も、社会 的評価ということを考慮すれば整理がつく問題だと思います。(ちなみに、 社会的評価ということも、現実には人間が行なうわけですから、間違いがあ りえます。だから、長い時間的経過の中では、「独創」が実は「トンデモ 話」だったということが起こりえるし、その逆もあるでしょう。逆の代表的 例が、「大陸移動説」でしょう。)

[danwa:0878]apjさん


> と,とりあえず思いつく具体例を出してみました。Ando S.さんの思い描


>いておられる「子どもたちに自由な発想を促す工夫」「管理的、画一的な


>こと」とはどんなものでしょうか?独創の内容自体がトンデモにいかない


>ように何らかの制限なり指導が必要だと思いますが,どうやって実現した


>らいいとお考えでしょうか?


「子どもたちに自由な発想を促す工夫」の具体例ですか。うーん、難しいで すね。それがさっさと提起できれば苦労ないですね。仮にそれを思いつくま まにここで出したとしても、それが「有効」であるという保証がないかぎ り、単なる空想ですからね。ただ、少なくとも、授業など子どもたちと接す る場においては、子どもたちの発言に注意深く耳を傾け、言いたいことを正 しく汲み取る忍耐、努力、能力、姿勢が教師には求められると思います。子 どもたちが信頼をよせない限り、どのような工夫も絵空事になるように思い ます。信頼がなければ、信頼を確立する努力が何よりも優先されることにな るでしょう。

「管理的、画一的」なことについては、長女の例を体験として述べています (「danwa:0871」)。小学校に入学したばかりの長女が担任教師をおそれを もって見ていること自体が、私にそのような推論と危惧の念をもたせたので す。

ついでに、「管理的、画一的」なことと逆の例は、やはり同じ投稿の中で私 自身の小学校時代の実際の経験を述べています。再読下さい。

「独創の内容自体がトンデモにいかないように何らかの制限なり指導」とい う点ですが、これは先にあった「独創」が「トンデモ話」になる問題と同じ ですよね。しかし、私は変わったことをやればすべて独創とは思っていませ んので、この設問自体が私にとってはナンセンスですね。むしろ、「独創的 と称してとんでもないことが教育の場に持ち込まれているいる問題」として 整理するのが正しいように思いますが。「独創」が「トンデモ」にいってい るのではないですよ。(「独創がトンデモにいく」のだとすると、「独創」 についての認識がapjさんと私では違っているのでしょうね。きっと。)


[danwa:0881] Re: 小学校の理科(私の体験的問題意識)
Date:Wed, 21 May 2003 11:47:13 From: apj
apjです。では話を元に戻します。

 「画一的な教え方が問題」というテーマはわかります。が,そのテーマ と,出された体験例が,読んでもうまく結びつかないので,どう考えた ものか,ちょっと悩んでおります。

>私の長女(昨年、大学を卒業)が小学校に入学してしばらく後のことです
>が、算数の宿題を見てやっていて、「そこは、こんなやり方をしたらいい
>よ。」と言ったら、長女が「(先生の教えた方法と違うから)そんなことし
>たら、先生にしかられる。」と言ったのです。これには、私はショックを受
>けました。
>
>長女は、小学校前はずっと保育所に通っていました。保育所時代には「先生
>にしかられるから」というようなことは一度も言ったことがないのに、小学
>校に入ってからわずかの間に「先生にしかられるから」ということで自分自
>身を規制しようとしているのです。これは、ショックでした。学校は子ども
>から自由闊達さを奪っているのかという思いと同時に、そのような学校と教
>師に言いようのない不信感がわいてきました。また、そういう場に子どもを
>託さざるを得ないことに、どうしようもない苛立ちをおぼえました。

 保育所と学校は目的も機能も違いますよね。
 教育というのは,どういう形であっても,考え方をある型にはめるという 面を持つと思うんです。そうすると,以下のような背景がはっきりしないと なかなか何ともいえないんです。

 「しかられる」の程度が問題です。「とにかくやってみなさい」と多少 強く言われる程度なのか,何らかの罰を伴うほどの叱られ方なのか。後の方 だとすると,算数の宿題のやり方に対する指導としてはアンバランスですよね。 でも,保育所時代に叱られたという実感を持つことが全く無かったのだとすれば 小学校に行って環境もかわったときに強く言われたことが非常に印象に残っ てしまうというのもありそうなことです。

 次に,算数の宿題をやる方法論を規制した話が,どうして「自由闊達さを 奪っているのかという思い」になるのかがよくわからないんです。
この例だけじゃなくて,もっと他にAndo S.さんが学校と関わると毎回規制 する話ばっかりだという体験をもっておられるのかもしれません。しかし, 例としてあげられた問題の解き方の指定と,自由闊達を奪うという話とが どうしても結びつかないのです。

 それから,たくさんの人数を教えるときは,まずはある方法に慣れさせる というのが,指導としてはよく行われていることだと思うんですよ。だから ある方法でまずやらせる練習をするときには,当然「この方法で」と いう指定があってもかまわないんですね。小学校だと,理解の早い人と そうでない人の差がはげしかったりするんで,指定された方法が,理解の 早い人からみれば冗長なものだというのもよくある話です。


>私自身の小学校時代は、なかでも、5年と6年のときは、Bi.Bi.さんとは逆
>に、とても思い出深いものです。5年の時の担任の先生とは、以来、今日に
>至るまで互いの近況を記した年賀状の往復が続いています。このときのクラ
>スは、55人で、それを7、8人ぐらいを単位とした班に分け、自分たちのこと
>はその班の中で討論し、それを全体にもちよるといったクラス運営をしてい
>ました。いわば「自治」といったことを、これによって学んだと思います。
>また、ガリ版の学級新聞を、自分たちで編集発行していました。いずれも、
>自分で考えるということ、自分たちで創造するといったことの訓練になった
>ように思います。少なくとも、価値観としてそのことが大切だと今でも思っ
>ています。授業も、教科書に書かれていないことが関連知識として話題に
>なったりもしました。それがまた、私にとっては楽しいものでした。何故か
>と言えば、自由に考え、想像し、空想することができるからです。

 私も似たような指導をされましたが,正直言って勘弁してほしいと 思いました。学級新聞その他は,作っている間は図工の時間みたいでそれなり に楽しいんですが,共同作業に伴うロスの方を強烈に意識しました。
 
 教科の方は,教科書の通りのときもあれば,補足にいろいろ資料が くばられて討論したりということもありました。

 ここまでは,理解を深めたいと思って書いた部分でして,本題は次の 部分からになります。
====================================================================

>さて、きょうの私の論点ですが、私の小学校時代と長女のそれとの比較から
>類推したとき、どうも学校というものの中身が私の時代から大きく変質して
>いるのではないかと危惧しています(ちなみに私はいわゆる団塊の世代で
>す)。つまり、学校教育が管理的になり、一元的な同質性が追求されている
>のではないかという危惧です。

 私はいわゆる新人類世代です。
 教育内容の管理を意識したことはありません。というか,私はサボリの 上に先生の言うことはそれなりにしかきかなかったので。あるやり方で やれと言われてそれなりにやりますけど,他のやり方を思いついてうまく いくことがわかったら,勝手にそっちでやってました。
 おかげで,人の話をきけとかいろいろ言われましたけど,そういうのは 性格なのでお説教されたってなおらないです。

 意識したのは,グループで何かやることを強制されたりするという,教科 以外の部分での管理の方でした。協調性の強要の趣がありますので。教師の 問題ではなくて,生徒同士の相互監視のような実態が出現して,そっちの方 が嫌でした。

>は、個性を抑え、自由な発想を排除することが根底にあれば、どのような授
>業もおもしろく興味あるものにはならないと思います。自由な発想をはぐく
>む工夫こそが、求められると思います。その場合大切なことは、子どもたち
>自身に考えさせ、自由に発言させる機会をもつことではないかと思います。
>そのようなときに発言される考えはきっとすべて正しいものでしょう。
>「誤っている」としてもその実体は、考えをまとめる上で考慮した背景や要
>素、知識の不足でしょう。そのことに子どもが気がつけば、学ぶことが楽し
>くなるのではないかと思うのです。

 おっしゃることはわかるんですが,今の授業ってそんなに子どもが発言 できないものなんでしょうか?
 普通は,教材を示して「わかる人手を挙げて」とやって,一通り意見や アイデアをきいて,先生がコメントしてから,「正解は・・・」って やるんじゃないかと。小学校の授業で,そういうことをやらない授業って ちょっと想像できないです。というか,子どもがだまって最初から最後 まで授業をきくなんて無理でしょう。集中力も持たないですし。
 その「正解は・・・」の部分の押しつけが厳しいということが問題と いうことでしょうか。でも,その程度で個性が無くなったり自由な発想 ができなくなったりするとは思えないです。間違ったことを言ったときに やさしく指摘するんじゃなくて,きつく叱られると,発言したくなくなる だろうとは思いますが。実際のところ,どんなもんなんでしょう。

 世代と地域性によるのかもしれませんが「間違って答えてもいいんだよ」 って教師が言ってくれると発言しやすいってのはありますね。みんな参加 できる雰囲気がつくられますので。今の小学生はそういうことを気にしない のかなあ。

 もし,そういう余裕がないとしたら,ゆとり教育で時間が減らされて 短い時間で最大限効率的に知識を詰め込むしかなくなったり,さらに総合的 学習で教師の側にゆとりが無くなった上に教科を教える時間がさらに 減ってしまったという現実があるのではないでしょうか。


>いまの学校教育の問題点は、どんなことも答えは一つで教科書に書いてある
>ことや先生の言ったことだ、その答えを導く考え方はこういうものだと一元
>的に教えていることではないかと、体験的に想像します。

 昔より今の方が,教科書や学校以外から情報を得る機会が増えているの で,学校が一元的に教えたところでその影響は相対的に少ないということは ないのでしょうか?
 もちろん,学校以外で情報を得る機会には,家庭間格差がありますので 個人の差が開く傾向にあると思います。

 学校のウェイトが相対的に下がっていると思うのは私だけでしょうか。


[danwa:0882] Re: 小学校の理科
Date:Wed, 21 May 2003 14:59:42 From: TKH
 前のメールでいきなり米国の小学校の理科の教科書 の、しかも、間違いの話に入ってしまいました。議論 の進め方として、あまり適切ではなかったかなと反省 しております。m(_ _)m

 日本の小学校の理科の教育について、下記の論文を 見つけました。

「新しい理科教科書について考えたこと」大橋ゆか子 (文教大学教育学部)
http://www.bunkyo.ac.jp/faculty/kyouken/Bull11/oohashi.pdf
でご覧になれます。

以下、この論文の一部を引用しながら、私の所感を述 べたいと思います。

> 0 教科書を考える
>
> 自分が生徒であったときは当たり前に使っ
> ていた教科書について、違った面から改めて
> 考えさせられた2 種類の体験がある。最初の
> 体験は、中国やベトナムから来て、本大学別
> 科で日本語を学んでいる学生に、日本の高等
> 学校程度の化学を教えたときである。高等学
> 校の教科書をテキストにして、日本語がたど
> たどしい学生に化学を教えたのだが、必要な
> 用語・概念が簡潔な短い文章で図と共に掲載
> されている教科書は、同等の内容を扱う書籍
> に比べ、はるかに安価であり、効率的な入門
> 書であると実感した。2 つ目の体験は、著者
> が教科書作成の側に参加したときであり、簡
> 略で生徒の興味を引き起こす文章を作るとき、
> 学習指導要領の制約、ページ数の制限、高校
> 生の読解力への配慮など、いくつもの条件に
> 縛られながら苦労したことである。この時、
> 教科書作成における学習指導要領の影響力の
> 大きさを実感した。

 この部分については、特にコメントはありません。 ただ、大橋さんという方が、我々の問題意識にピタリ と合致する知識・経験の持ち主であることを確信でき ると感じました。

> 1 .平成10 年学習指導要領と教科書
>
> 平成10 年に教育課程審議会の答申が出され、
> 10 年振りに新しい学習指導要領が作成された。
> それに基づく教科がこの4 月から小学校と中
> 学校で使われているのだが、いろいろな問題
> が指摘されている。完全学校週5 日制実施と
> 総合的学習の時間の創設が、この4 月から同
> 時に始まったため、各教科の授業時間数はか
> なり減少した。新学習指導要領は、このよう
> な授業時間数の減少という条件のもとに、
> 「ゆとり」ある学習をさせるという困難な課
> 題を背負っていた。総合的学習で環境・情報・
> 国際がテーマとして例示されており、理科は
> 環境と情報、社会は環境と国際に関係してい
> るためか、この2 教科の授業数削減率は国語、
> 算数より大きく17 %である。総合的学習と教
> 科内容との関連については試行錯誤の段階で
> あり、文部科学省の方針も当初、総合的な学
> 習は体験活動重視であったのが、教科との関
> 連を容認するように変化してきている。授業
> 時間数の減少に対応する文部科学省の方針は、
> 学習内容を厳選するというものであった。こ
> の学習指導要領に則った検定は内容の精選を
> 厳しく要求したので、小学校理科教科書では
> 掲載された植物の数も審査の対象となった。
> 平成10 年の学習指導要領によれば、小学校
> 理科3 年の「生物とその環境」領域の目標に
> は、「身近な動物や植物を比較し」とあり、
> 4 年の目標には「身近な動物の活動や植物の
> 成長を」とある。一方、平成元年の学習指導
> 要領では3 年と4 年の目標には「身近な植物
> を探したり育てたりして」とあり、3 年には
> 「昆虫を探したり育てたりして」、4 年には
> 「身近な動物を探したり育てたりして」とあ
> る。文章から見ると、ほぼ同じことを意味し
> ているように見えるが、教科書を見ると大き
> な違いがある。一例として、同じ出版社の小
> 学校理科教科書に掲載されている動物、植物
> の名前を比較してみると、旧指導要領の場合
> は3 年で36 種類、4 年上巻で20 種類であり、
> 新指導要領の場合は3 年で10 種類、4 年上巻
> で7 種類であった。他の出版社の教科書につ
> いても同様の傾向が見て取られた。5 年、6
> 年では観察ではなく、動植物の生理や機能を
> 扱うが、その時に例として用いる動植物は低
> 学年で学習したものを使う。従って、低学年
> の教科書で扱われる動植物の数が少ないとい
> うことは、高学年の小学校理科の内容の深み
> にも大きく影響している。

これは重要な指摘だと思います。小学生のころ は、乾いた砂が水を吸うように、どんどんもの を覚えます。例えば、ポケモンの名前だけでな く技の種類から、そのウイークポイントまで、 大人があきれるほど知っているものです。そし て、知っているから、好きになり、好きだから さらに知るという好循環になるのです。
子供たちに、本当は、ポケモンの世界よりはる かにはるかに面白い自然のことを知って貰い、 好きになって貰うための、入り口の案内として、 動物や植物の名前を教えることは大切です。
 しかも、ある程度数多く教えることが重要だ と思います。その理由は三つあります。第一に、 自然に関心を持ち、好きになるために。第二に、 自然の多様性を知るために。第三に、関連する 様々なことのよりよき理解のために。
 第三の点を、少し補足しましょう。マツだけを 知っているのでは、話は発展しません。クロマツ、 アカマツの話をすれば、マツタケの話、里山の話、 木材資源の話、水資源の話、漁業資源の話など、 資源・環境の話がいくらでも出来ますし、そのと きには教えられなくても、後々(学校以外も含め) の知識の獲得、整理のために大いに役に立つこと でしょう。
 私ごとになりますが、東京工業大学で、資源・ エネルギー・環境論の非常勤講師を5年間やって いたとき、なるべく身近なものを例にとって、具 体的に教えることを心がけました。ある年、クロ マツ、アカマツ、ハイマツを例にとって、資源と エネルギーと環境が密接に関係していることを説 明し、マツヤニから、紙のサイジング、ハンダ、 そして無鉛ハンダの話をするつもりだったのが、 「マツヤニって何ですか」と質問されて、がっく りして、マツヤニの説明にとりかかり、予定の半 分くらいしか話が出来なくなったことがありまし た。
 申し上げたいことは、知識の質も大切だが量も やはり大切ということです。

> 今回の改訂の趣旨は、「身近な自然につい
> て児童自ら問題を見いだし、見通しをもった
> 観察、実験を通して、問題解決の能力を育て
> るとともに、学習内容を日常生活と一層関連
> 付けて実感をもった理解を図り、自然を愛す
> る心情と科学的な見方や考え方を養うことを
> 重視して、内容の改善を図る」となっており、
> 基本方針の中にも「日常の生活との関連」
> 「目的意識をもって」という語句が頻出して
> いる。

この、「改訂の趣旨」には、全面的に賛成です。

> そういう点から考えてみると、検定の
> 方針は改訂の趣旨に添っているとはいえない
> のではないか。

そうです、改訂の趣旨を検定の段階で変えているのが 混乱の原因だと思われます。

> 都市部の児童であっても、日常生活で、身
> 近な自然で、出会う動植物が10 種類というこ
> とはない。人と知り合うときに名前を覚える
> ことが必要なように、自然とつきあうにも名
> 前を覚え、識別して、対象を認識することが
> 前提である。名前を知ることにより、雑草、
> 雑木、昆虫にも関心が向き、生態に興味をも
> つ。これが、小学校理科のA 領域「生物とそ
> の環境」の目的ではないだろうか。農耕民族
> であった日本人は、身の回りの草花、昆虫、
> 動物、風の種類、雲の種類などに関心を持ち、
> 生活の中でそれらの名前を覚えてきた。虫の
> 音を楽しみ、風の音を聞き分けてきた。生活
> の様式が変わっても、気候、風土は変わって
> いないのだから、日本人の自然観がそんなに
> 大きく変わったとは思えない。つまり、それ
> らの名前を教科書に載せることが過大な要求
> であるとは思えない。

また、児童の頭脳にとって、過大な負担になるとも 思えません。

あまり長くなるので、今回はこれで終わります。

(^^)/~~~ 


[danwa:0883] Re: 小学校の理科
Date:Wed, 21 May 2003 15:24:32 From: apj
>そうです、改訂の趣旨を検定の段階で変えているのが
>混乱の原因だと思われます。

 前にも書いたかもしれませんが,私のきいた話では,制度が2構え になっていて

教科調査官:指導要領を作る人。
多くは任期付きで,大学の先生とか付属学校の先生が担当する。
大手教科書会社から頼まれて,検定教科書を執筆するような 人たちがやっている。

教科書調査官:検定をする人。
文部科学省の役人が担当する。

 それで,現実に起きていることは,指導要領を作った人たちが 検定教科書の原稿を書いて本の形にして文部科学省に提出すると 指導要領を作ったときには意図していなかったようなチェックが 教科書調査官によって入れられてしまうということ。曰く,「動物 の種類が多すぎる」「植物の種類が多すぎる」,月の満ち欠けを 説明する図で「月の数が多すぎる」・・・・ってアニメーション的に 順番に示さないとわからないでしょうが!!

 なんでこんなことになってるのかが謎です。
もしかしたら,指導要領を作る人たちが,指導要領の中に明文で 「実例をあげる数を制限してはならない」とか書いて,文書に従わざる を得ない役人を動かすしかないのかもしれません。そうでないと, 内容を制限してわかりにくくする方向にしか解釈されないのかも。
 教科書調査官の指導要領の読解(曲解?)力と指導要領に なんと書くかの戦いのように見えなくもないでんですが,実際の ところはどうなんでしょうね。


[danwa:0884] Re: 小学校の理科
Date:Wed, 21 May 2003 17:56:39 From: TKH
 apjさま 補足説明有り難う存じます。私が外形的 問題点を指摘したのに対して、構造的なポイントを ご指摘いただいたと思っています。

> 教科調査官:指導要領を作る人。
> 多くは任期付きで,大学の先生とか付属学校の先生が担当する。
> 大手教科書会社から頼まれて,検定教科書を執筆するような
> 人たちがやっている。
>
> 教科書調査官:検定をする人。
> 文部科学省の役人が担当する。
>
>  それで,現実に起きていることは,指導要領を作った人たちが
> 検定教科書の原稿を書いて本の形にして文部科学省に提出すると
> 指導要領を作ったときには意図していなかったようなチェックが
> 教科書調査官によって入れられてしまうということ。曰く,「動物
> の種類が多すぎる」「植物の種類が多すぎる」,月の満ち欠けを
> 説明する図で「月の数が多すぎる」・・・・
>  なんでこんなことになってるのかが謎です。
>
>  教科書調査官の指導要領の読解(曲解?)力と指導要領に
> なんと書くかの戦いのように見えなくもないでんですが,実際の
> ところはどうなんでしょうね。
   
 指導要領を作る人たちと教科書をチェックする人々 は、様々な点で違う人たちです。
 要領作成組は、「先生」と呼ばれるグループです。 教科書チェック組は、先生とは普通呼ばれません。 係長、課長補佐、調査官等の(下級の)役職で呼ば れることが多いようです。
 「先生」は、権威はあります。少なくとも表向き は尊敬もされます。でも、実質的な権限はありませ ん。特に、何かを否定する権限はありません。先生 の中の先生、すなわち大先生が、ある出版社の教科 書を検定不合格にしようと思っても、実際上、それ は難しいでしょう。
 それに対して、役職で呼ばれる人々の多くはいわ ゆるノンキャリーです。さほどの権威はありません し、先生ほど尊敬もされません?も、その分野で 長く生きてきたため、業務に精通して、実質的な権 限も持っています。彼(女)が、首を横に振れば、 教科書が検定不合格になってしまいます。
 よく、役人は…という問題提起がされますが、先 生方と同じグループのキャリアー組とノンキャリア ー組を一緒に議論することは難しいでしょう。
・・・・いけない脱線するところだった。m(_ _)m

 apjさま、まさにご指摘の通り、先生組とノンキャ リ組の相剋の構図が見えて来ますね。理想を掲げる 先生組と、素人に勝手なことはさせじと権限を誇示 するノンキャリ組の間で、右顧左眄、うろうろする 教科書会社が、哀れ……ではありません。結局、こ のデフレ時代に安定的なかなりの利益を享受してい るのですから。

 しかし、こんな教科書ではね、という教科書しか 与えられない児童、そして、その児童に国の将来を 託さなければならない一般国民は哀れです。 (>_<)

では、(^^)/~~~


[danwa:0885] Re: 小学校の理科
Date:Wed, 21 May 2003 19:14:32 From: apj
 あまり役人の話にいかないように,技術的面からの解決策 はないか,考えてみました。

> よく、役人は…という問題提起がされますが、先
>生方と同じグループのキャリアー組とノンキャリア
>ー組を一緒に議論することは難しいでしょう。
>・・・・いけない脱線するところだった。m(_ _)m

 以下,実務を知らない私の偏見が入っているかもしれません。

検査役:プロの役人。業務に精通。ついでに,指導要領を 書かれた範囲でぎりぎり自分の信念に基づいて解釈する という技術も持っている。

先生:いい理想を持っているし,そのことを要領にも入れること ができるが,いわゆる学校の先生の作文で要領を書いてしまうため 検査役の解釈に制限を加える文書にならない。

 役人は文書によって拘束されるという前提にたてば,役人の 文書解釈能力を先生たちが学んで,キレイ事学校作文ではなく 現実に役人を動かせる書き方をすることで,行われる検定を 変えることもできるのではないかと。
ただ,世の先生たちは,お役所的文書取り扱い技術を上げることに 意味を感じないだろうなあ・・・・・。
役人への指示を含んだ文書の書き方って,教育の理念を語るの とはだいぶ違うような。

 書類の読み方書き方については,役人はプロです。
役人以外に,役人に匹敵する同じ技術の持ち主が増えてくれば 変わってくると思います。
 逆に言うと,文書を扱うスキルが役人を上回らない限り,意図 しないことをされるのを防げないかもしれません。

 指導要領に検定が明白に違反,ということになれば,今度は 役人の責任追求の理由になりますよね。裁量権による解釈の範囲 だという逃げが打てないところまで,書類でびしっと押さえておけば。

> しかし、こんな教科書ではね、という教科書しか
>与えられない児童、そして、その児童に国の将来を
>託さなければならない一般国民は哀れです。 (>_<)

 頼りにならない官を当てにするのはやめて,理科については,
「新しい科学の教科書」 左巻健男 執筆代表
(http://www.bun-ichi.co.jp/hotnews_frame.html の下の方に紹介あり)
の出番となるわけです。文一総合出版より。大人にもウケて 予想以上に売れています。副教材として採用する学校や,図書館 に入れるという学校も出てきています。私学では,教科書につかう というところも出ています。
 サブタイトルが,
 「現代人のための中学理科」オビには「検定外」の文字が。
検定でけずられまくって,どうやりくりしても無理というところ まできたので,理科の先生達がよってたかって作りました。
私も1巻と3巻の検討委員で参加させていただきました。
 これが学校関係者にもそれ以外の方々にも好評をもって受け入れ られるのが,検定に対して一番キツイ批判になると思います。

 現在,小学理科についても,左巻さんが中心となって,検定外 を出すという動きがあります。小学校の先生を中心としてやると いうことです。小学校はまた教育技術という点で中学とは違って ちょっと特殊らしいので,一般の検討委員の募集はしてないようです。

 私はというと,別グループの小学生向け理科読み物の分担執筆 と検討に参加しています。
 別メッセージでも,ちらっと書きましたが,オカルト版水の結晶 写真が小学校の授業で使われるに至って,さすがに危機感を持った ので,トピックをいくつか書かせてほしいと頼みました。ですから ナカヤ・ダイヤグラムの話を出して,雪結晶の本当の話を入れる ことにしました。


[danwa:0886] Re: 小学校の理科
Date:Thu, 22 May 2003 00:48:21 From: TKH
 大橋さまの論文と私のコメントの続きです。

> 2 .理科を教えること、学ぶこと
>
> 名前を覚え、対象を認識することにより、
> 雑草、雑木、昆虫にも関心が向く、という考
> えに反対する人は少ないと思う。「だが、し
> かし、授業時間数が減った時、多くの動植物
> の名前を教科書に載せると、覚えきれず、不
> 消化になる」というのが反論であろう。これ
> は、「教える」「学ぶ」という過程に対する概
> 念の相違に基づくのであろう。
> 「教科書に記載されたものは確実に理解さ
> せ、記憶させる必要がある」という考えの他
> に、「教科書は生徒と教師双方の資料である。
> 確実に理解させ、記憶させる事項以外の内容
> が載っていてもいい。いや、載っていた方が、
> 知識欲を刺激するのでよい」という考えもあ
> る。これらの考え方を検討するため、現在の
> 日本の学校教育の状況を考えてみたい。日本
> の教育では理解の遅れた児童生徒をださない
> ように配慮し、教師もそのために多くの努力
> をし、対策を模索している。しかし、理解の
> 進んだ生徒に対する指導はほとんど検討され
> てこなかった。最近これが指摘されるように
> なってきたが、組織的な対策はまだ手つかず
> のままである。

教科書は確実に理解、記憶…という考え方がある ことは知りませんでした。もちろん、項目として は、理解するべきでしょうが、「記憶」とはね。

> 本学部がアメリカ教育研修として提携して
> いるアメリカ合衆国メリーランド州チャール
> ズ郡教育委員会では、理解度の進んだ学生の
> ための教育プログラムをいくつも用意してお
> り、そのコースの教師が週に数回ずつ学校を
> 巡回している。郡毎に予算が独立しているた
> め、予算的に余裕のある郡ほど多くのコース
> を用意している。数十校を見学した範囲では、
> 進度の遅い児童生徒に対する対策は、日本の
> 方がはるかにきめ細かいと感じられた。

アメリカは広いですし、州や郡による方針の差 も大きいので、一概にはいえませんが、進度の 遅れた児童(特に英語の不自由な児童)に対す る対策には、学ぶべきものが多かったりもしま す。
進度の進んだ児童に期待し、さらに伸ばすプロ グラムは日米では比較になりません。江戸時代 の方がましだった…と口をすべらしたくなるく らいです。

> 日本では理解の進んだ生徒が高校2 年生で
> 大学に進学できたり、大学3 年生で大学院
> へ進学できる飛び級制度が始まっているが、
> これ以外にも日常の学習の中で可能な対策が
> あるはずである。

前に書いたのですが、東京工業大学で資源・エ ネルギー・環境論の講義をしていたとき、飛び 級制度が始まりました。対象は1名でした。そ の1名が、面接のとき、「最も感銘を受けた講 義」として、資源・エネルギー・環境論を挙げ て、その関係の博士コースに進んだと聞きまし た。教師(非常勤講師ですが)冥利に尽きる話 です。そして、進度の遅れた人に手をさしのべ るのも重要だが、進度の進んだ人の後押しをす るのも大切だと思いました。

m(_ _)m 話が小学校から離れ、しかも自慢話に なりました。ご容赦下さい。m(_ _)m

> アメリカにおける様なプログラムを
> 実施することも選択肢の一つであるが、毎日
> 使っている教科書の中にいろいろなヒントが
> ちりばめられていて、普通の授業で飽き足ら
> ない児童生徒が思考力を刺激され、想像力を
> 膨らますきっかけとなる、そんな教科書を認
> めることは効果的な方法の一つであろう。

内容は100%賛成ですが、語尾の「あろう」 は、「である」にしたいところです。

> 人間の理解の段階はゼロか100 %か、どち
> らかという単純なものではない。大体分かっ
> ているけれど、何回か聞いているうちに次第
> に理解が深まり、本当に納得するという過程
> がある。その年齢、知識量、体験により、理
> 解にも程度の差がある。特に自然現象を対象
> にする理科の場合、科学者であろうと完全に
> 自然を理解することは不可能であり、時間を
> かけて自然とつきあっていくことが大切であ
> る。教科書に精選された内容だけを掲載し、
> それを完璧に理解させることを目指す方向性
> は自然の理解には適していないのではないか。

まったく、その通りです。司法試験とは違うの です。教科書をバイブルにしてはいけないでし ょう。

> 3 .自然との共存
>
> 新指導要領が施行されるとともに、この授
> 業内容では児童生徒の学力低下を招くという
> 批判の声が、産業界や教育関係者、保護者の
> 間からあがり、報道機関にも盛んに取り上げ
> られるようになった。そして、この7 月に教
> 科用図書検定調査審議会から「教科書制度の
> 改善について」(検討のまとめ)が出され、
> 教科書検定方針の大幅な変更が示された。こ
> れによれば、入学試験の対象としないこと、
> 基礎・基本部分と明確に区分すること、分量
> に制限を加えることなどの条件のもとに、教
> 科書に「発展的な学習内容」を記述して良い
> ことになった。基本的な教育方針などの検討
> がなされたうえでの変更ではないが、当面、
> 教科書の改善に利用できると考えられる。制
> 限は多いが、知識詰め込みではなく、刺激詰
> め込み、想像力詰め込みにできるかどうかは、
> 教科書執筆者の努力と考察にかかっている。

刺激詰め込み、想像力詰め込み ?良い言葉ですね。(^_^)
      
> 「日本人は技術の改良には向いているが、
> 自然科学領域で創造的な能力を発揮できない」
> という意見をよく見る。

よくは見ますが、間違いだと思います。でも、脱 線はしませんぞ。 (>_<)

> ヨーロッパ起源の自然科学は、誕生時
> の文化的、時代的条件を反映しており、複雑
> な自然の中から骨組みの部分だけをとりだし
> て、数式化した法則・理論の体系を作り上げ、
> その体系で神による自然の支配体系を排除し
> ようとした。これが物理学を代表とする近代
> 西欧科学であり、ヨーロッパの自然科学は
> 「自然を征服することを目指した科学」とも
> 言われる。一方で、東アジアの影響を受けな
> がら育った日本の自然観は、「自然と共存す
> る科学」と言えるだろう。現実の自然をそぎ
> 落として単純化し数式化する領域には、日本
> 的自然観が成果をだしにくいかもしれない。
> しかし、自然を全体として捉え、その中のルー
> ルを見つけだす領域には日本的科学観が適し
> ている。科学技術の発展は現在、大きな問題
> を人類に投げかけている。クローン動物、遺
> 伝子操作、臓器移植、再生医療、環境ホルモ
> ンなど生命の定義、存在自体に迫る技術が実
> 用化されており、されようとしている。しか
> し、生命現象の重要な機能には複数のパスが
> あり、1 つのパスに障害がでると時間はかか
> るが次のパスが動き始めるなど、複雑な仕組
> みであることが分かってきている。このよう
> な領域には単純化思考を特色とする西欧的自
> 然観よりも、総合的思考の日本的自然観が力
> を発揮する可能性が大きい。
> 日本が江戸時代でも世界一の人口密度を維
> 持できたのは、米の栽培、水利事業、衛生・
> 医療などの領域で、日本独特の自然を知り自
> 然を使う科学観と科学技術を身につけていた
> からである。また、日本では特定の権力層だ
> けでなく、庶民も含んだ層がそれらの自然科
> 学知識に興味をもち、それを身につけ、実践
> していた点が何より素晴らしいと言える。こ
> れは日本人の特徴といえるのではないか。
> 自然の中で数式化できる領域は限られてお
> り、ヨーロッパの自然観と東アジアの自然観
> に優劣があるわけではない。法則中心の演繹
> 的学習は体系的にまとめやすいこともあり、
> 従来の理科教育はこの方法を中心としてきた。
> 簡単なルールで説明できる自然現象もあるが、
> そのルールは必ずある条件のもとに成り立つ。
> いつでもその条件が成り立つ訳ではない。

全く賛成です。これじゃコメントにならないか?

>科学・技術が単純な法則体系を超えた領域に突
> 入しようとしている21 世紀において、単純な
> ルールを追うことが理科的考え方であると教
> え込むのは大変危険なことである。その世紀
> に生きる人々を育てる理科教育には、日本の
> 良さである全体的把握の中から方向性を見つ
> けていく態度を育てることが必要であろう。
> そのためには、多くの要素が複雑に影響しあ
> う現実の自然や自然現象を、できるだけ教科
> 書に取り込むことが必要である。それにより
> 日常生活と関連づけて自然を理解することが
> 可能になると考えられる。

宗教も一神教だけが…。危ない危ない。 (>_<)

長くなって申し訳ありません。大橋さまの論文 を題材に議論が白熱することを期待します。

(^^)/~~~


[danwa:0887] Re: 小学校の理科
Date:Thu, 22 May 2003 10:03:22 From: apj
>> かし、授業時間数が減った時、多くの動植物
>> の名前を教科書に載せると、覚えきれず、不
>> 消化になる」というのが反論であろう。これ
>> は、「教える」「学ぶ」という過程に対する概
>> 念の相違に基づくのであろう。
>> 「教科書に記載されたものは確実に理解さ
>> せ、記憶させる必要がある」という考えの他
>> に、「教科書は生徒と教師双方の資料である。
>> 確実に理解させ、記憶させる事項以外の内容
>> が載っていてもいい。いや、載っていた方が、
>> 知識欲を刺激するのでよい」という考えもあ
>> る。これらの考え方を検討するため、現在の
>> 日本の学校教育の状況を考えてみたい。日本
>> の教育では理解の遅れた児童生徒をださない
>> ように配慮し、教師もそのために多くの努力
>> をし、対策を模索している。しかし、理解の
>> 進んだ生徒に対する指導はほとんど検討され
>> てこなかった。最近これが指摘されるように
>> なってきたが、組織的な対策はまだ手つかず
>> のままである。
>
>教科書は確実に理解、記憶…という考え方がある
>ことは知りませんでした。もちろん、項目として
>は、理解するべきでしょうが、「記憶」とはね。

 授業で「記憶」させるかどうかという問題では なくて,入試の範囲の問題だと思うんです。ただし これも現場を知らないので・・・。

 推測ですが,

・中学入試,高校入試などの試験範囲は,小学校や中学校の 教科書の範囲という一応の縛りがある(中学入試ではどこかに 消え去っているみたいですが)。
・自由にたくさん例をいれていいことにしておくと,重箱の スミをつつくような問題も出題可能になって,結果として 受験勉強が非常に大変になる。受験戦争をどうにかしろという 一般の人からの文句も出てくるに違いない。役人としてはそんな 責任は負いたくない。
・じゃあ,教科書に極力余分なことを書かせない方針にすれば 受験のために膨大な量を重箱の隅まで勉強しなくても良くなる ハズ

って流れじゃないんでしょうか。

で,現実に起きたことは
・受験をしっかりやりたい人は塾へ行くから余分な コストがかかる上に,パズルみたいな問題を山ほどやらされ るので,教科書を制限したって全く無意味
・受験と無関係で教科書にたくさんのことが出ていても問題ない はずの人たちは,削られた教科書で不十分な知識しか得られない という・・・・・。

 だから,いっそのこと,試験問題は選ぶ側で自由にどうぞ, と,教育内容自体に競争原理を入れてしまうのが手っ取り早い かも。
 選ぶ側としては,自分のところの学校にあった人を選べる 試験をすればいいわけで,重箱の隅をつつく人材を養成したいの ならそうすればいいし,もっと発展性のあることをしたいのなら そういう問題を作ればいいだけのような。
 学校間で「いい問題」を作る競争をするというのも,もっと あっていいと思う。

------------------------------------------
以下,紹介された記事の最後の方に関する体験談です。

 確より理解が早いと,小学校の授業は苦行でしかないです。 実は私がそうでした。
 先生の説明,最初の1回はきくんですね。最初だしめずらしいから。 で,きいたらそれでわかっちゃうので,子どもとしては,当然次の ネタ,じゃなくて教材の説明を期待するわけです。ところが,わかって ない人がいるという理由で,何回も同じ事を説明されると,その間 ずっと待ってないといけない。この,待たされるというのが,退屈で 苦痛なんですね。優等生なら待ってられるんでしょうけど,その点では 私は普通に子どもだったので,退屈を感じると授業中に遊んじゃうわけ です。もちろん,先生の話はときどききいているので,指されれば 答えられます。教師は気分を害したようです。まじめに前を向いて ずっと話をきいている生徒は指されて答えられず,ろくに話をきいてない 私はしっかり答えるので(笑)。さらに,おぼえちゃったら,家でもう 一回同じ事をするのは嫌だから,宿題はサボリまくります。でも,記憶 にはしっかり残ってるから,テストで点はとれちゃいます。
 通知票をみると不満が。授業態度なども成績を決める理由になるので 実際にとった点から予想されるより低めになるんですね。でも,その 授業態度は,延々待たされて退屈な思いをさせられるその授業が原因で 生じているわけで。だから,教師のすることに,いつも理不尽さを感じて いました。
 中学になって,定期テストの結果が学年ごとに点数順に出るように なって,非常にすっきりしました。結果に教師の感情による恣意性の入る 余地がほとんどないからです。態度とか努力とかまで加味して評価して ダメを出されると,人格を否定された気分になります。人が人を評価 するなんてどうせ公平にはできないんだから,点数だけに限定しておいて もらいたいものです。


[danwa:0888] Re: 小学校の理科
Date:Sat, 24 May 2003 21:28:54 From: Ando S.
Ando S.です。ここ数日、納期との格闘で仕事が忙しくメールを開く時間す らままならない状態が続いておりました。

apjさんのレス[danwa:0881]ですが、誤解されていると思われる点がありま すので、最初に、それを補足します。

[danwa:0881] apjさん
> 私も似たような指導をされましたが,正直言って勘弁してほしいと思い
>ました。学級新聞その他は,作っている間は図工の時間みたいでそれなり
>に楽しいんですが,共同作業に伴うロスの方を強烈に意識しました。
>
> 意識したのは,グループで何かやることを強制されたりするという,教
>科以外の部分での管理の方でした。協調性の強要の趣がありますので。教
>師の問題ではなくて,生徒同士の相互監視のような実態が出現して,そっ
>ちの方が嫌でした。

学級新聞は、担任も認めたものであることはまちがいありません。その意味 では、教育の一環です。しかし、授業の中で作られたのではありません。生 徒自身の自主的な活動として行なわれたのです。だから、「『自治』といっ たことを、これによって学んだ」([danwa:0871]Ando S.)ことの一例とし てこれをあげたのです。自分たちで編集委員(私もその一人)を選び、その 編集会議は一人の編集委員の家に日曜日に集まって行ないました。そこには 担任の先生は来ていません。その家のお父さんから、「新聞の見出しは、斜 めに流したら見やすい」ということを教えてもらったりしながら自分たちだ けで新聞を編集していったのです。

だから、私の体験を「似たような指導」と評されますが、それは形の上のこ とであって、中身はまったく異なるものだと推測します。

「グループで何かやることを強制」、「生徒同士の相互監視のような実態」 などとはまったく縁もゆかりもないことです。一体何のために、生徒同士が 相互監視をするのでしょうか?
私は、[danwa:0871]の中で、「学校教育が管理的になり、一元的な同質性が 追求されているのではないかという危惧」を、私の問題意識として表明しま した。留意していただきたいのは、これは、あくまでも「危惧」であり、そ うであるという確証を表明したものではありません。しかし、apjさんのこ のような感想を拝見すると、apjさん自身が私の危惧するような環境の中で 教育を受けてこられたのではないか、と思われてきます。

次に移ります。
[danwa:0881] apjさん
> 「画一的な教え方が問題」というテーマはわかります。が,そのテーマ
>と,出された体験例が,読んでもうまく結びつかないので,どう考えたも
>のか,ちょっと悩んでおります。

確かに、ちょっと言葉足らずの点はあるかと思います。もう少し具体的にし ます。

さらに、
> ここまでは,理解を深めたいと思って書いた部分でして,本題は次の部
>分からになります。

ということで、これにつづいて本題として述べられていることへの私のレス にしたいと思います。

以下、そのレスです。
私の3人の子どもたちの算数の宿題を見ていて共通していると思ったこと は、例えば文章問題のときですが、子どもたちは答えとして計算結果しか ノートやプリントに書かないことです。「どうして計算式を書かないのか」 と聞いても、これで良いからだという答えが返ってくるだけです。私が、計 算式を書くことは、どのようにこの問題を考えて解いたかということを示す ことだから大事だと説明しても書こうとしません。「先生は、そうしろとは 言っていない」と言うのです。そして、担任が添削した結果を見ると、ただ ○×が記されているだけです。
ここからは、結果だけを見る指導が行なわれているように思えてきます。私 なら、例え計算結果が正解でも計算式のない答えは○にはなりません。逆 に、不正解でも計算式が正しければ、△にしたいですね。結果だけでものご とを評価していく視点は、画一的な発想につながるものだと思います。

それから、私の子どもたちの例ではありませんが、πを3.14から3でよいと する指導要綱の問題がありましたね(これは、実際に行なわれているので しょうか?)。多くの教育専門家が反対していたと思いますが、素人目にも 実に奇妙なことだと思います。それどころか、ある種「トンデモ話」のよう な気さえします。
私は、中学のときに、月面のあばた模様(クレータ)を自分の目で見たくて 口径8センチの望遠鏡を作ったことがあります(今なら、親にせがんで望遠 鏡を買ってもらうところでしょう)。対物レンズを装着する筒を作るために は、πを用いて筒の内側の円周を計算する必要があります。このとき、π=3 として計算すれば、対物レンズは筒に入りません。
現実との矛盾が明らかなこんな馬鹿げた指導が、なぜ、出てくるのでしょ う。ある意味、画一的指導の局地ですよ。

私がこのようなこだわりをするのには、次のような体験も、その理由の一つ としてあげることができます。
私は、仕事上、よく海外へ出かけます。トルコに行ったときのことです。イ スタンブールから東へ飛行機で1、2時間飛んだところにある町でのできごと です(町の名前は忘れました)。その町のホテルのロビーで同行の代理店社 長と談笑していると、利発な目をした13、4才ぐらいの一人の少年が私の側 にやってきて、「話をさせてください」と英語で言うのです。「自分は英語 の勉強をしており、そのため英語で話をしたい」というのがその理由でし た。私は、快く応じて、社長もまじえてその少年としばらく話しをしまし た。少年は、最後に、「ありがとうございました」と礼儀よく挨拶をしてそ の場を去っていきました。わたしは、このときの少年の知的な目の輝きに感 動すら覚えました。
もう一つは、スペインのカタロニア地方に行ったときです。代理店従業員の 青年とレストランで夕食を共にすることになり、行ってみると彼の横にやは り13、4才の少女が坐っていました。青年の妹でした。その目が好奇心でき らきらと輝いているのがとても印象的で、わくわくしている心情を隠さない 態度でした。彼女がせがんだので連れてきたということでした。そして、次 の日の夜、私はその青年の家に招待されることになりました。彼女が、なぜ 私を家に呼んで夕食を一緒にしないのかと強く主張したからだということで した。この夜も、彼女の目は、きらきらとして、臆することなく私の方を見 つめていました。
この二人の少年少女の目の輝きは、同じでした。そして、日本ではついぞ見 たことのない輝きでした。一言でいえば、知的好奇心に満ちた輝きです。も ちろん、日本の子どもが同じ日本人の私を相手にこのような輝いた目を見せ ることはありえないでしょう。また、この二人がトルコやスペインの子ども 一般を体現しているのではないことも、十分承知しています。しかし、それ でも、直感として、日本の子どもたちには無い何かを持ち合わせているにち がいないという印象は今でもぬぐいきれません。これを、教育の違いと言い きってしまうのはあきらかに誤りだと思います。むしろ、教育の問題である よりは文化の違いといった方がよいかもしれません。それでも、私の内部で は、私が「危惧」として表明した視点を常に意識させる動機になっているこ とは否定しようがありません。


[danwa:0889] Re: 小学校の理科
Date:Sun, 25 May 2003 02:26:59 From: TKH
 Ando S.さん
                TKHです。

 少年・少女の「知的好奇心に満ちた(目の)輝き」 に関するメール拝見しました。お気持ちは痛いほど わかります。お話の大筋にも賛成です。しかし、こ のテーマについては、私なりに申し上げたいことも 多くあります。
 といって、「小学校の理科」という枠の中で、こ のテーマを論じるのは少し無理かなという気がしま す。
 そこで、提案ですが、「小学校の理科」という話 題は残しておいて、もう一つ「目の輝き」という話 題を取り上げませんか。両者に関係する場合、例え ばAndo S.さんが取り上げられた、πの問題などは、 適当にどちらかに分類すればいいでしょう。

目の輝きなどという抽象的な話題は、コンセンサ スが得られたり、収斂したりするものではないでし ょうが、結構、有益な議論が出来るのではないでし ょうか。(と、老いた目をそれなりに輝かせていま す)

 以下は、上記の提案が何らかの形で受け入れられ たという前提、すなわち、「小学校の理科」の枠を 外れたコメントです。m(_ _)m

Ando S.さんのコメントに対するTKHのコメントの形 をとります。

> 日本ではついぞ見たことのない輝きでした。一言
> でいえば、知的好奇心に満ちた輝きです。もちろ
> ん、日本の子どもが同じ日本人の私を相手にこの
> ような輝いた目を見せることはありえないでしょ
> う。また、この二人がトルコやスペインの子ども
> 一般を体現しているのではないことも、十分承知
> しています。しかし、それでも、直感として、日
> 本の子どもたちには無い何かを持ち合わせている
> にちがいないという印象は今でもぬぐいきれませ
> ん。これを、教育の違いと言いきってしまうのは
> あきらかに誤りだと思います。むしろ、教育の問
> 題であるよりは文化の違いといった方がよいかも
> しれません。それでも、私の内部では、私が「危
> 惧」として表明した視点を常に意識させる動機に
> なっていることは否定しようがありません。

まず、私はAndo S.さんと同じ危惧を抱いていること を申し上げたいと思います。だからこそ、この話題を 少し掘り下げたいと申し上げる次第です。

「目の輝き」は、知的好奇心だけから生まれるもので しょうか。私は、戦後間もなくの頃の戦災孤児(もっ とずばり、浮浪児と呼ばれ、上野駅の地下道に暮らし て、飢えて、痩せこけて、目を光らせていました)を 何人も見たことがあります。また、昭和45年頃でし たが、レバノン市外のパレスチナ人難民キャンプで、 同様に目を光らせて少年を何人も見ました。
 輝かした、と光らせたと、書き分けましたが、私に はこの両者は同じに見えます。区別が付かないのです。
 何かの期待、それが知識の獲得であろうと、食料の 獲得であろうと、人は目を光らせるのではないでしょ うか。とすれば、光のもとは「ハングリー精神」と言 えるかもしれません。知的ハングリーということがあ ってもいいではないですか。
 私が通っていた高校は、いわゆる男子校で、職員も みな男性でした。あるとき、共学の高校とテニスの試 合があり、先方は、女子の応援付きで来校しました。 ふと気がついたのですが、友人達の多くが、いわゆる、 ギラギラした目をしているのです。自分の顔をトイレ で見ましたが、その時は異常はありませんでしたが。 これも、広義のハングリー精神の産物なんでしょう。
 また、先日、久しぶりに秋葉原の部品屋(少なくな りましたね (>_<))を覗いたのですが、数人の少年 が熱心に部品の物色をしていました。そうです。目は (昔のラジオ少年同様)輝いていました。
 少し前になりますが、神戸の震災のときに駆けつけ たボランティアーの人々が、疲れ果てても、目には強 い光を宿していたという報道に接したこともありまし た。人の役に立ちたいという欲求も一種のハングリー 精神の表れと述べたら、牽強付会だと叱られるでしょ うか。
 Ando S.さんのお話と、私の話の、相違点を挙げれば、 私が、知的好奇心に限定しないで話を進めていること と、目の輝きの喪失は、日本民族や、日本文化の特性 に由来するというより、(広義の)ハングリー精神の 喪失のためではないかと述べていることであります。

 反論、補足を期待します。

 それから、(主として)若い人たちに知的好奇心を持 たせるために、何をなすべきか、…というコメントも いただきたいですね。(^_^)

(^^)/~~~


[danwa:0890] Re: 小学校の理科
Date:Sun, 25 May 2003 02:30:41 From: Ando S.
Ando S.です。

TKHさんとapjさんとの談話室会話は、難しいですね。高尚と いうのか、素人の私には、引用されている論文などを読みこなすのも大変で す。私のこれまでに投稿した体験的な話題では、気恥ずかしい思いすらしま す。

私は、4月に同僚を一人連れて、仕事でイタリアに行ってきました。イタリ アについて空港からホテルに向かうタクシーの中でその同僚とよもやま話を いろいろとしているとき、ふとこんなことを考え、彼に話しました。

「結局、人間は、地球にとってはガン細胞のようなものではないかなあ。少 なくとも、18世紀までは、人間は地球と調和することで生きてきたと思う。 それが、19世紀の産業革命以降、急に勝手気ままな増殖を始め、21世紀の 今、地球そのものをおびやかすまでになってしまっているんだ。森林を破壊 するなどの自然破壊は、まさにガン細胞の正常細胞に対する侵食と同じよう に思えるなあ。このままでは、ガン細胞がその人の死と共に死滅するのと同 じように、人間そのものが地球と共倒れをするんじゃないかと思うよ。」

そのあと、イタリアの北部、アルプスのふもと近くにある会社を訪れたとき のことです。現地の技術者の運転でその会社まで車を飛ばしましたが、車窓 から見える景色に、同僚が思わず声をあげました。

「川に堤防がないなあ。」

わたしも、そちらを見て、

「本当だなあ。このような堤防のない川について昔ある本で読んだことがあ るけど、そのときは、どういうものかイメージがまったくわかなったけど、 いま、やっとわかった。こういう川か!川の側に林があるだろう。あのあた りは、川が氾濫したときに、スポンジのような役割をして、保水するんだ。 ダムをつくって治水するというのは、結局は自然破壊になるんだ。たしか、 そんなことをその本には書いていたな。」

昔読んだ本というのは、富山和子著「水と緑と土」(中公新書)です。30年 ほど前に発行された本で、私が読んだのは10年ぐらい前です。

今その本を取り出してみると、以下の記述に、私自身が赤線を引いていまし た。引用します。

「自然を壊すにさいしても造り育てるにさいしても、自然というものを自己 の都合のよいように解釈してかかるこのような思考の方法が、日本人の体質 にそなわるようになったのはいつごろからであろうか。」

著者は、日本人がかっては自然を愛し自然に対応して生きてきたことを確認 しながら、現代の日本人の自然破壊の問題点を解明しています。30年前に書 かれた本ですが、その問題意識は今も新鮮に感じられます。

TKHさんの引用された大橋論文[danwa:0886]:
> 西欧科学であり、ヨーロッパの自然科学は
> 「自然を征服することを目指した科学」とも
> 言われる。一方で、東アジアの影響を受けな
> がら育った日本の自然観は、「自然と共存す
> る科学」と言えるだろう。現実の自然をそぎ

この規定には、私は少し違和感をおぼえます。たしかに、かっての日本人は 自然と共存してきたと思います。しかし、それは「科学」としてではないで しょう。文化としてだろうと思います。また、今の日本人にそれがあるで しょうか。ヨーロッパの風景をじかに見ると、ヨーロッパ人が自然を大切に し、日本人が自然を破壊しているように、私は感じます。
しかし、同時に、「自然との共存」に日本人が回帰している動きが大きくな りつつことも感じてはおります。可動堰やダム、干拓に反対する人達の運動 が、それです。もちろん、反対の理由には「税金の無駄使い」といったこと もあるでしょうが、「自然との共存」が重要な理由の一つであることはまち がいないはずです。

これからの科学は、自然との調和が重要な課題になると思います。そのなか で、子どもたちの理科離れがいわれていることは、何とも悲しいことです。 自然との調和を意識した科学知識を持った子どもたちを育てることは大切な 課題です。そのときに、自然を破壊してきた近代の実態と、自然を大切にし たかっての日本の文化を子どもたちに教えることも、必要でしょう。しか し、政治が自然を破壊する政策を推し進めながら、一方で、子どもたちに自 然の大切さを教えるというのは、どう考えてもアンバランスです。(農水省 の官僚さん、文部科学省の官僚さんともっと連携してよ。思わず、余計なこ とを叫びたくなります。)


[danwa:0894] Re: 小学校の理科
Date: Mon, 26 May 2003 00:14:57 From:Ando S.
Ando S.です。Bi.Bi.さん、どうされています。
Bi.Bi.さんの問題提起から、話しがぐんとひろがって、教育論全般にかかわ るようなところまで行ってしまいました。どうもその原因を作ったのは私に あるようです。で、Bi.Bi.さんのところに戻ります。

私は、小学校の理科の実験を、結構おぼえています。そして、それを家でも やって、一人で遊んでいたように思います。

思いつくままにあげると、
* 乾電池、豆球を使った電気の実験−−−交通信号機の模型を作りました。 スイッチ操作でついたり消えたりします。信号機の色は、セロファンを使い ました。
* 直流モータを作る−−−乾電池で駆動します。最初に、手で起動してやら ないと電気を流しただけでは回りませんでした。学校で作ったモータを家に 帰ってからも回して遊んでいました。
* ジャガイモから片栗粉を作る−−−家でも作ってみました。
* 金属が熱によって膨張することの実験−−−金属のリングと球を用意しま す。常温では球はリングを通過しません。リングを熱すると、球がリングを 通過するようになることで膨張を確認します。その確認の前に、金属はどの ように膨張するかという質問が先生から出されました。つまり、リングの内 径は小さくなり外径が大きくなるという膨張の仕方か(リングの幅が広くな る)、内径も外径も大きくなる膨張の仕方か。結果は、球がリングを通過し ますから、内径も外径も大きくなったとわかります。では、なぜ、そうなる のか、さらに質問が出ます。そして、金属のどの部分も等しく膨張するから という答えが出ます。
* 光合成実験−−−朝顔の葉の中央部に銀紙の帯を巻きます。何日か後にそ の葉を摘み取ります。そして、確か、お湯に入れて葉緑素取り除いたと思い ます。それから、ヨウ素でんぷん反応で確認したと思います。銀紙を巻いた 部分は、ヨウ素でんぷん反応が起きません。
* 人間の吐く息には、空気よりもたくさんの炭酸ガスが含まれていることの 実験。

そのほか、理科の実験ではありませんが、家庭科でりんごジャムを作ったり というのも楽しかったですね。粉ふきイモを作ったのも覚えています。

また、学校を通じて販売されたポケット顕微鏡を買ってもらいました。ちょ うど写真のフィルムケースぐらいの大きさです。これで、我が家の七味にダ ニが生息していることを発見し、大騒ぎになりました。
といったことが、40年以上も経過した今でも思い出されます。
なんでこんなこと今でもおぼえているのだろうと自問すると、やはり、楽し かったいうことですね。そして、楽しかったことは、家でも繰り返しまし た。TVもまだ充分に普及していなかったし、それが遊びでもありました。そ れに、先生が実験の意味を質問したり、結果の予測を問うことで生徒たちに 考えさせた、といったことがあげられます。結局、考えることで、わかるこ との喜びや楽しさが倍増されたのかなあと、思ったりします。先生の実験中 の質問が教科書に書かれていたものかどうかは、まったく記憶ありません。 中学や高校での実験も覚えているものがありますが、小学校のときの方が簡 単なので、むしろよく覚えているように思います。

しかし、理科の中でも、覚えることは苦手でした。たとえば、植物の名前を 覚えるといったことです。考えてもわかりませんからね。タンポポやチュー リップといったあたりはいいですが、それ以上は、大変。結局、覚えていた り、区別のつく植物の名前は、学校で習ったからというより、家のまわりで 小さいときから見なれていたからだと思います。

子どもの遊びの文化を育てることは、私の子どもたちが通った保育所や学童 保育で取り組まれていました。しかし、単に、昔の子どもたちの遊びであ る、凧上げやコマ回し、石蹴り、縄跳び、綾取り、といったことを教えて も、実生活の中がTVを見たり、TVゲームをしたりということですから、家に 帰ってからもそれで遊ぶということはあまりなかったですね。TVゲームなど に代わって別の遊び文化を育てるといっても、かなり至難ですね。現状で は、不可能でしょう。肥後守(子ども用の折りたたみナイフ)を与えたりと いうこともありました。でも、これらの遊びが、今は青年になった子どもた ちの心の成長にどのような影響を与えたのだろうと自問しても、答えが出て きませんね。



[danwa:0895] Re: 小学校の理科(大橋論文2)
Date:Tue, 27 May 2003 00:14:11 From:Ando S.
Ando S.です。
TKHさん、ちょっともどって、大橋論文の話しも少しさせてください。

>> 2 .理科を教えること、学ぶこと
>>
>> 名前を覚え、対象を認識することにより、
>> 雑草、雑木、昆虫にも関心が向く、という考
>> えに反対する人は少ないと思う。「だが、し

私は、その少ない反対者の一人です。自分自身の少年時代をふりかえって、 自分はどういう場合に授業や学習をおもしろいと感じ、逆にどういう場合に おもしろくないと感じたかというふうに考えてみたとき、私は、これとは反 対の立場にいたと思います。

基本的には、名前を覚えたら関心がわくのではなく、関心があるから名前を 覚えるのだと思います。私は、植物の名前を覚えるのが大嫌いでした。それ とくらべて、動物の名前を覚えるのはそれほど苦にはならなかったです。な ぜなら、動物は好きだけど、植物はあまり興味がなかったからです。動物園 に行くのは大好きでしたけど、植物園はそもそもなかったですし、修学旅行 で高知の牧野植物園に行ったことが一度あるだけです。でも、そのような私 でも、その牧野植物園で見たある植物はとても印象的でした。それでも、そ の名前は今ではやはり忘れてしまっています。でもその植物がどのような形 や色をしたものかは今でもしっかり覚えています。どうしてその植物に興味 を持ったかというと、それは大きな円盤の形をして水に浮き、子どもが乗っ ても沈まないのです。その大きさと子どもが乗っても沈まないというところ に、感嘆したのです。(これで名前を覚えていたらもっと説得力が出たと思 うのですが、残念。)

「名前を覚え、対象を認識することにより、・・・関心が向く」ということ は、私においては絶対にありえないです。

私は、興味がわき、関心が向いたとき、その名前を覚え、対象をさらに深く 認識しようとします。名前を覚えてから興味を持ったものがあるかと自問し てみても、ないですね。ゼロです。

私が名前を知っている植物には、何があるだろう。植物にあまり興味がな かったからといっても、いくつかあります。ゼロではありません。でも、そ れらはいずれも生まれてこのかた生活の中で見慣れてきたもので、学校で教 えられたから覚えているというものではありません。

金木犀という植物があります。学生時代、夜道を歩いているととても強いに おいがしてきました。私には初めてのにおいでした。「なんだろう」と思っ ていると、友人が「金木犀のにおいだ。いいにおいだ。」と言うのです。そ して、「これが金木犀だ」と教えてくれました。それで、金木犀を今でも覚 えています。

名前を教えるのがまちがいだと言っているのではありません。それは、大切 なことです。でも、興味のないものの名前を覚えることが優先され、そのう え、もし、それをどれくらい覚えているかということをテストで徹底されで もしたら、たまったものではありません。私なら、絶対お断りです。きっ と、理科がきらいになります。

小さい子どもが、よく、「これ、なあーに」と質問します。そして、名前を 答えたら、子どもはそれで納得します。そして、また他のものを指差して、 「これ、なあーに」と質問します。この場合、子どもは、教えられた名前を 覚えてから、その指差したものに関心をもつのでしょうか。ちがいますよ ね。好奇心がわいて、「これ、なあーに」と言うんでしょう。そして、答え てもらうことで親の愛情を確認し、自分の好奇心を充足させているのではな いですか。だから覚えるようになり、さらには知る喜びをもつようになるの ではないですか。それが、小学校になったら急に、名前を覚えてから関心を もつようになるなんてことになるでしょうか。ありえないですよ、そんなこ と。

私は、自分の子どもたちによく言いました。「ただ覚えようとするから覚え られないし、おもしろくなくなるんだ。考えてそれを理解しようとしてごら ん。わかったら覚えられるし、おもしろくなるよ。」



[danwa:0896] Re: 小学校の理科
Date: Wed, 28 May 2003 00:20:54 From:Bi.Bi.
Ando S.さん、こんばんは。
Bi.Bi.です。

[danwa:0894] Ando S.
> Ando S.です。Bi.Bi.さん、どうされています。

いやー、すごい勢いで議論がなされるもんで、 読むだけで精一杯です。 ぼくも、言いたいことはいっぱいあるんですが、 とても、ついていけません。

>
> 子どもの遊びの文化を育てることは、私の子どもたちが通った保育所や学童
> 保育で取り組まれていました。しかし、単に、昔の子どもたちの遊びであ
> る、凧上げやコマ回し、石蹴り、縄跳び、綾取り、といったことを教えて
> も、実生活の中がTVを見たり、TVゲームをしたりということですから、家に
> 帰ってからもそれで遊ぶということはあまりなかったですね。TVゲームなど
> に代わって別の遊び文化を育てるといっても、かなり至難ですね。現状で
> は、不可能でしょう。肥後守(子ども用の折りたたみナイフ)を与えたりと
> いうこともありました。でも、これらの遊びが、今は青年になった子どもた
> ちの心の成長にどのような影響を与えたのだろうと自問しても、答えが出て
> きませんね。
>

でも、子どもの遊びの文化は育てなけりゃならんと思います。 動物園の猿ではだめで、野生の猿でないと、きっとだめだと思います。 とくに、学齢の低い時期は、 群れの中でもまれて遊びのなかで学ぶことが必須と思います。 これは、遺伝子に組み込まれたもの、というのが、私の持論です。 ですから、テレビゲームやテレビなどに時間を奪われるというのは、 とても危険なことと思います。 親がこの危険性について認識することが必要でしょう。 科学館は、親に対して、子育てに関することも、いい刺激を与えることが、 責務と思ってます。

とりあえず、今日はここまでで、勘弁して下さい。 まだまだ、言いたいことはいっぱいあります。

Bi.Bi.


[danwa:0897] Re: 小学校の理科
Date: Thu, 29 May 2003 00:19:23 From:Ando S.
Bi.Bi.さん、こんばんは。Ando S.です。

[danwa:0896] Bi.Bi.さん:
>でも、子どもの遊びの文化は育てなけりゃならんと思います。
>動物園の猿ではだめで、野生の猿でないと、きっとだめだと思います。
>とくに、学齢の低い時期は、群れの中でもまれて遊びのなかで学ぶことが
>必須と思います。
>これは、遺伝子に組み込まれたもの、というのが、私の持論です。
>ですから、テレビゲームやテレビなどに時間を奪われるというのは、とて
>も危険なことと思います。
>親がこの危険性について認識することが必要でしょう。
>科学館は、親に対して、子育てに関することも、いい刺激を与えること
>が、責務と思ってます。

はい、まったくおっしゃるとおりです。
実は、私が科学館友の会に入会したきっかけは、子どもにそういう刺激を与 えようと思い立ったからです。当初は、展示場はもとより、例会などにも子 どもをつれてきていました。しかし、今は、私一人だけです。そのほか、西 はりま天文台なども家族づれで、しばしば訪れました。

「群れの中でもまれて遊ぶ」ことについては、とくに、異年齢の集団(大き い子から小さい子まで)の中で遊ぶことが大切です。私自身、小さいときは 大きい子に遊んでもらい、大きくなってからは小さい子とも遊びましたね。 しかし、それがなかなかないんですね、現在は。

思いつくところで、学童保育が、そのような集団になっていますね。ところ が、私の知っている限りでは、学童保育には定員があって、年齢の小さい順 から優先して、その結果、実質的に1年生のだけの集団になっていました。 あぶれた2、3年生は、放課後、学校近くの児童館に通うのです。しかし、う ちの子どもたちは、児童館組になってからは、いやがりました。理由は、よ くわかりません。指導員の力量も、大切なようです。子どもの遊び文化を育 てることに意識をくだいた館長や指導員がいるときは、子どもがいやがるこ ともなかったように思います。ここらあたりに、国や自治体が力を入れてく れたらいいのですが、現実は、逆です。

ここらあたりが、TKHさんとの話題になっている、「社会のありよう」の一 つの側面でしょう。


[danwa:0902] Re: 小学校の理科
Date: Tue, 3 Jun 2003 00:29:19 From: Bi.Bi.
Ando S.さん、みなさんこんばんは。
Bi.Bi.です。

[danwa:0897] Ando S.さん


> 「群れの中でもまれて遊ぶ」ことについては、とくに、異年齢の集団(大き


> い子から小さい子まで)の中で遊ぶことが大切です。私自身、小さいときは





中略





> くわかりません。指導員の力量も、大切なようです。子どもの遊び文化を育


> てることに意識をくだいた館長や指導員がいるときは、子どもがいやがるこ


> ともなかったように思います。ここらあたりに、国や自治体が力を入れてく


> れたらいいのですが、現実は、逆です。


> 


なかなか、難しいと思います。

というのも、子どもが群れて遊ぶ文化が大事かどうかは 主観の域を脱していない様に思います。
私個人は大事な事と思うのですが、 客観的なデータに基づくものではありません。 そう思わない人もたくさんいるようですので。

ひとつだけデータらしきものと言えば、 次のような認知心理学(だったと思う。)のテスト結果かもしれません。
これはまったく論理的に同じ内容の簡単な設問2題の回答を求めるもので、 一方は抽象的な表現、一方は切手をつかった具体的な表現です。 で、正答率は後者の方が圧倒的に大きい、というものです。
すなわち、人は抽象的な事で推論することは難しいが、 具体的な事なら推論できる、というものです。

背理法や3段論法を駆使して、きっちりへそくりを溜め込むのに、 同じ論法を人間関係や社会問題など、(物理にも?)に使えない、 なんて人はたくさんいますよね。

私は、この認知心理学のテストも裏付けのひとつとして、 「人は己の経験した事からしか、ほとんど思考できない。」というのを 前提に仕事をしています。

教科書に例題があるのも、 経験を積む事なしに新しい概念が習得できないからでしょう。
量子力学を始めて学ぶとき、 多くの人は物理量が演算子で波動関数は・・・ ということが受け入れられないのも似ています。

同じように、幼少のころに様々なよい経験を十分積んでおかないと、 それらを抽象化した概念を得るのは至難の業だろうと思うのです。

Bi.Bi.


[danwa:0903] Re: 小学校の理科
Date: Tue, 3 Jun 2003 21:11:32 From: TKH
少しレスがたまりました。ご免なさい。TKHです。

Ando S.様


> 私は、小学校の理科の実験を、結構おぼえています。


私もそうです。


> 乾電池、豆球を使った電気の実験−−−交通信号機


> の模型を作りました。スイッチ操作でついたり消え


> たりします。信号機の色は、セロファンを使い


昭和23年、24年ごろは、まだ、乾電池、豆球は手 に入りにくかったので、とても大切にしていました。 信号機までは、手がまわりませんでした。


> 直流モータを作る−−−乾電池で駆動します。最初


> に、手で起動してやらないと電気を流しただけでは


> 回りませんでした。学校で作ったモータを家に帰っ


> てからも回して遊んでいました。


これもやりました。エナメル線の巻き方を変えたりし て。乾電池が新しければ、手で回さなくても、起動し たと思います。


> ジャガイモから片栗粉を作る


これは、お気に入りの実験で、近所のより幼い子供達 を集めて実験を見せていました。悪ガキの実験を、他 の悪ガキが熱心に(夕食に遅れた子がいて、一緒に叱 られたりしました)手伝ったりしていました。結構、 理科好きになったガキンチョ(方言かな)がいたよう です。


> 光合成実験−−−朝顔の葉の中央部に銀紙の帯を巻


> きます。何日か後にその葉を摘み取ります。そして、


> 確か、お湯に入れて葉緑素取り除いたと思います。


> それから、ヨウ素でんぷん反応で確認したと思いま


> す。銀紙を巻いた部分は、ヨウ素でんぷん反応が起


> きません。


これは、高度な、しかも良い実験ですね。経験はあり ませんが。


> 考えさせた、といったことがあげられます。結局、


> 考えることで、わかることの喜びや楽しさが倍増さ


> れたのかなあと、思ったりします。先生の実験中の


> 質問が教科書に書かれていたものかどうかは、まっ


> たく記憶ありません。


私など、理科の教科書があったかどうかも覚えていま せん。先生が作られるガリ版の資料は覚えていますが。
それから、菊池寛責任編集と銘打った小学生全集の1 冊に、化学を扱ったものがあり、周期律表まだ穴が結 構ありました。「君たちが大きくなった、新しい元素 を発見して、日素とかニッポニウムと命名して下さい」 というようなことが書いてありました。


> しかし、理科の中でも、覚えることは苦手でした。


> たとえば、植物の名前を覚えるといったことです。


そうですね。ただ覚えるのは苦手で苦痛ですね。覚え るのが好きという人もいますが、理解できません。
 しかし、同じ全集の物理編には、電子は大きいけれ ど、重さはプロトンの1840分の1しかない。など と書いてありました。当時から、数字に弱かったので すが、こういう数字は、すぐ覚えました。
 音が、1秒間に330メートル伝わるとか、1秒間 に9キロメートル進む大砲の弾が出来たら、地球の周 りをぐるぐる回るとか、11キロメートルになると地 球から飛び出せるから、宇宙旅行も出来るなどという 数字も、覚えました。
 幾つか数字を覚えると、他の数字に関心が深くなり ます。当時計画中の「弾丸列車」とか、人の走る速さ、 ピューマの速さなどなど、関心を持って、覚え、覚え ると関心が深まりました。


> 肥後守(子ども用の折りたたみナイフ)を与えたり


> ということもありました。でも、これらの遊びが、


> 今は青年になった子どもたちの心の成長にどのよう


> な影響を与えたのだろうと自問しても、答えが出て


> きませんね。


良いお父さんですね。私も子供達(3人います)と良 く遊びました。ファミコンのファーストエディション を買って、子供達と本気で対決しました。
こちらは、子供達にサービスしたと思っていますが、 子供達は、子供をダシにして、パパが遊びたかっただ けではないかと疑っています。
たいした子供達ではありませんが、家族全員が、とて も仲がいいことと、人に迷惑をかけないと信じられる ことが取り柄でしょうか。(脱線m(_ _)mなさい)

世は、前記の小学生全集の時代ではありません。21 世紀を生き抜く人たちには、古典的な物理や化学、生 物に加えて、いくつも勉強して貰わなければならない ことがあります。例えば、情報理論などは、本格的勉 強はさておき、小学生時代に入り口を覗いて貰っては どうでしょう。(これも、脱線かな?)


[danwa:0904] Re: 小学校の理科
Date: Fri, 6 Jun 2003 11:39:07 From: Ando S.
Ando S.です。Bi.Bi.さん、こんにちは。

[danwa:0902]Bi.Bi.さん:


>私は、この認知心理学のテストも裏付けのひとつとして、


>「人は己の経験した事からしか、ほとんど思考できない。」というのを


>前提に仕事をしています。


これ、まったく同感です。認知心理学のテストのことは知りませんでした が、同じ思いです。

[danwa:0902]Bi.Bi.さん:


>教科書に例題があるのも、


>経験を積む事なしに新しい概念が習得できないからでしょう。


>量子力学を始めて学ぶとき、


>多くの人は物理量が演算子で波動関数は・・・


>ということが受け入れられないのも似ています。


そうでしょうね。量子力学の場合、逆に、その経験が邪魔をしているという 側面があるように思いますが。しかし、それでも、経験(それまでにつち かってきた諸概念の総体)をたよりにしていかなければならないように思い ます。そして、常識を打ち破る新しい概念をつかみ・・・、なんてことにな ればいいですのが、私はその前で挫折しています。


[danwa:0910] Re: 小学校の理科
Date: Thu, 12 Jun 2003 00:58:47 From: TKH
Ando S. さん 超亀レスで申し訳ありません。m(_ _)m


> TKHさん、ちょっともどって、大橋論文の話しも少しさせてください。


> 


>>> 2 .理科を教えること、学ぶこと


>>> 


>>> 名前を覚え、対象を認識することにより、


>>> 雑草、雑木、昆虫にも関心が向く、という考


>>> えに反対する人は少ないと思う。「だが、し


> 


> 私は、その少ない反対者の一人です。自分自身の少年時代をふりかえって、


> 自分はどういう場合に授業や学習をおもしろいと感じ、逆にどういう場合に


> おもしろくないと感じたかというふうに考えてみたとき、私は、これとは反


> 対の立場にいたと思います。


Ando S.さんが引用部分で述べられたこと、そしてその 後で述べられたことは、よく理解できます。私もほ ぼAndo S.さんと同じように、物理、生物などに親しん でいったように思います。

ですから、大橋論文のこの部分の叙述が時間的(あ るいは因果的に)に逆ではないかというご指摘は、 面白いし、新鮮でした。
確かに、「対象を認識?興味を持つ?名前を知る」 というパスはあるでしょうし、Ando S.さんの場合、 そのパスしかなかったということは理解出来ました。

私の場合は、困ったことに、大橋先生のパスとAndo S. さんのパスが明確に分かれないのです。
昆虫や植物の場合は、どちらかといえば、Ando S.さん に近かったようですし、天文や音楽や物理の場合は 大橋先生のパスに近かったと思います。

小学校のとき、火星や金星のことを少し教えられ、 木星、土星、水星の名前だけ教えられました。名前 を知ってしまうと、色々知りたくなりました。先生 は、「火星は赤いので昔の人は、火の星と思ってい ました。金星はきらきら明るく輝くから金の星と呼 ばれました」しかおっしゃいませんでした。
 では、木星は木で出来ているの?まさか。土星は、 水星は、そして他にも仲間の星があるというけれど、 どんな星で、どこにあるの ???
 母に聞いたり、本(前に書いた小学生全集)で調 べたりして、それでも分からないことが多くて、先 生に質問に行ったりしました。K先生は、「先生も よく知らないのよ。調べて、この次にお話しますね」 とはっきりおっしゃいました。
 数日後の、先生のお答えは、とても面白く、そし て飛び切り為になりました。
 知らないことを知らないということの素晴らしさ、 知らないことを調べることの素晴らしさ、(知らな かったことを知ることの素晴らしさ)、そして、 世の中には、誰も分からない(まだ知らない)こと が沢山あることを知る素晴らしさ。
 父と母にこの話をして、得意になって、知識を披 露したとき、二人が声を揃えて、「おまえは幸せだな」 と言ってくれたことを思い出します。

私は色々なものに関心をもっていますが、その幾つ かは、学校で教科書や先生の話に触発されたもので す。男の子の多くがそうであるように、音楽に関心 はなかったのですが、中学のとき、N響のチェロ奏 者S先生が、週に2日くらいでしょうか、音楽を教 えに来られていました。先生の音楽の歴史のお話に 興味を持って、教科書の先の方まで読んでいて、友 人から、「音楽の予習をする奴がいるか」と笑われ ました。そのとき、読んだのは、コラム的に書かれ た、作曲家小伝でした。そして、作曲家名を覚えた 後で、ラジオ(しかなかった)で、作品を聞き、関 心を深め、広げて行ったのです。

私の場合、学校と校外、教科書とその他の資料は取 り立てて異質の存在ではありません。また、幸い、 教科書に書いてあることを記憶しているかどうかを テストで問われたこともありません。

長くなりました。私はAndo S.さんも大橋先生も正しい のではないかと思います。

Ando S.さんのおかげで、ものをより深く考え、なつか しい先生方の思い出に浸ることができました。あり がとうございました。m(_ _)m

(^^)/~~~


・・・さて、この先 話はどうなるのか?お楽しみに!・・・
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