『科学談話室』の話題より
目 の 輝 き
2003/05/25 話題提供
2003/06/01 最終更新
話題一覧
この話題は 小学校の理科  からの続きです 


[danwa:0891] 目の輝き
Date: Sun, 25 May 2003 19:18:45 From:Ando S.
TKHさん、こんばんは。Ando S.です。

「目の輝き」ですか。正直、大変なことになってしまったなあという気持ち で、たじろいでおります。どこまでお付き合いできるかわかりませんが、と りあえず始めましょうか。

[danwa:0889]TKHさん:
> Ando S.さんのお話と、私の話の、相違点を挙げれば、
>私が、知的好奇心に限定しないで話を進めていること
>と、目の輝きの喪失は、日本民族や、日本文化の特性
>に由来するというより、(広義の)ハングリー精神の
>喪失のためではないかと述べていることであります。

> それから、(主として)若い人たちに知的好奇心を持
>たせるために、何をなすべきか、…というコメントも
>いただきたいですね。(^_^)

今回は、以上の2点に焦点をあてた話にしたいと思います。でも、完全にま とまりのある話にはならないと思います。整理して話しをするというより、 思いつくままに進めていきます。

まず、「目の輝きの喪失は、日本民族や、日本文化の特性に由来するという より、(広義の)ハングリー精神の喪失のためではないか」という点です。 ここで、「目の輝きを喪失している」のは、日本の子どもや若者を指して言 われていると思いますし、それだからこそ「危惧」をもたれているのであろ うと推察します。

私も、日本の子どもや青年に目の輝きがないことは、感じております。ま た、その理由が日本民族や文化に由来するものではないという点も、同意で きます。でもそれが、「(広義の)ハングリー精神の喪失」によるとするの は、少し、抽象的であると思います。何か現代的な具体的理由があるのでは ないかと思います。それを探っていくことが、理科に限らない、日本の教育 問題の核心に迫ることになるのだろうし、ひいては、若い人たちに知的好奇 心を持たせることにつながるのであろうと考えます。

では、私に「目の輝きを」を示したトルコとスペインの少年・少女はどうで しょう。かれらは何らかの「ハングリー精神」を持っていたのだろうかと考 えると、そうではないように思います。

(ここでちょっとお断りしておきますが、TKHさんが体験された「輝く目、 光る目」は、私には実体験としてはありません。だから、そこは想像するし かないのですが、誤解や的外れになることをおそれず、話をすすめます。)

TKHさんが体験されたことと私のそれで、少し違う点があります。私の体験 は、私にそそがれた視線であり、そこからの目の輝きです。TKHさんのそれ は、どうでしょう。必ずしも、そうではないのではないでしょうか。秋葉原 で熱心に部品を探し求める少年たちの目にしても、それはいわば無我夢中の 目であって、TKHさんに注がれた視線ではないと思います。

私に注がれた視線は、会話をしている間、あるいは食事をしている間中、私 の言動を少しも見逃すまいとする視線でした。彼らにとってはめずらしい、 普段じかに接触することのない東洋人にたいする好奇心といったものが、そ の根底にあっただろうとは思いますが、しかしそれは「ものめずらしさ」、 「興味半分」といったこととは違うように思います。「理解しようとする姿 勢」といった方が適切なように思います。そうでなければ、私が少年の目の 輝きに感動を覚えることもなかったでしょう。

それと、少年・少女は、「私は、いま、あなたに強い関心をもっていま す。」という意志を、ストレートに示していたと思います。少年は、自らの 主体的意志によって私に話しかけてきましたし、少女は、夕食への同席と家 に私を招待することを家族に訴えて、私に会ってみたいという自らの希望を 実現しています。そして、そういうところが、彼らの視線からはっきりと感 じ取れるのです。たとえば、兄である青年が妹である少女を連れてきた理由 を私に説明しているとき、その横から私を見つめる彼女の目は、「そうなん です。それにまちがいありません」と訴えているようでした。そういう、目 の輝きなのです。相手に自分の意志をはっきりと示す目です。この点に、私 は文化の相違を感じ取ったということです。「自分の意志をはっきり示す」 ということは、日本文化ではあまり好まれない態度ではないでしょうか。や やもすれば、和を乱す存在にされかねません。

次に、「若い人たちに知的好奇心を持たせるために、何をなすべきか」とい うことですが、この問題は、学校教育や家庭だけでなく、現実の日本社会の ありようとも深くかかわっているように思います。 私は、自分の子どもたちや友人である他の子どもたちの言動から、いわゆる 「落ちこぼれ」と称される子どもたちは、「自分はまわりから認められてい ない」、「自分の居場所がない」、という虚無感を持ち、自信喪失の状態に おちいっているのではないかと推測しています。そして、虚無感や自信喪失 だけなら、おとなしい目立たない生徒ということになるのでしょうが、その ような自己の状況に反発し、自分の存在をまわりに対して示そうとすると、 それがいわゆる「問題行動」となり、場合によっては、まわりに対して攻撃 性を示すことになるのでしょう。私は親たちとともに、このような子どもた ち(中学生)と話しをしたことがあるのですが、彼らは、「いい先生」は彼 らと同じ目線に立って話しを聞いてくれる先生であると言っていました。そ して、そのような先生は、学校の中に何人かいると言っていました。彼らの 一人は教師を殴ったこともあるのですが、この話の中では「あのときは自分 が悪かった。」と正直に反省の姿勢を示していました。喫煙をしたりなどの 問題を日常的に起こしていたのですが、話しをしているときの彼らは、精神 的に幼いと思いましたね。言いかえれば、問題行動と精神の幼さが、実に不 釣合いでした。(問題行動では「大人」を示し、安心できる状況では「子ど も」であることを赤裸々にさらけ出している、ということのように思いま す。そして、その「子ども」性が年に似合わず幼いということです。) この子どもたちは、いま、青年になっています。この彼らが、知的好奇心を 持っているのかどうかというと、定かではありません。中学卒業後、左官に なった子もいます。そして、中学のときは表情の固かったその子のお母さん が、左官姿の彼とにこにこしながら歩いているのを見たことがあります。

ちょっと長くなりすぎました。とりあえずまとめとして、次のことを言いた いと思います。現代の子どもや若者の問題には、彼らに自己を実現(発揮) する場が与えられていないということがあると思います。学校や社会は本来 そのような場でなければならないのですが、現実は、そこに出て行くことは 息が詰まるのです。一度落ちこぼれたら、行き場がないのです。これが、知 的好奇心への障壁になっているのではないでしょうか。ハングリー精神の喪 失ではなく、希望を失っている(見えてこない)のです。ハングリー精神の 喪失は単なる意欲の喪失ですが、希望の喪失は意欲が打ち砕かれているので す。 彼らは、社会に向かって自己を主張しようとしません。その自信がありませ ん。そういう訓練(教育)をされていないのだろうと思います。逆にいえ ば、そうすることを否定されてきたのではないでしょうか。茶髪、ピアス、 流行の服装、仲間と同じ恰好をしています。仲間と違う恰好をするのを嫌い ます。仲間同士で群れ、仲間と同じ恰好をすることで安心している風があり ます。

日本人が自己を表現したり、主張したりするのが下手だといわれるのは、日 本文化によるものであると思いますが、彼らが自己を主張しようとしないの は、日本文化ではなく、教育や現代の日本社会のあり様にかかわりがあると 考えます。


[danwa:0893] Re: 目の輝き
Date: Mon, 26 May 2003 00:04:40 From:TKH
Ando S.さん

早速の真摯なレスありがとう存じます。

> 私も、日本の子どもや青年に目の輝きがないこと
> は、感じております。また、その理由が日本民族
> や文化に由来するものではないという点も、同意
> できます。でもそれが、「(広義の)ハングリー
> 精神の喪失」によるとするのは、少し、抽象的で
> あると思います。

そうですね。広義のハングリー精神という言葉は、 例に挙げた、多数の実例の背後にあるものを何か で説明しようとして、いわば苦し紛れに思いつい たものです。

> 何か現代的な具体的理由があるのではないかと
> 思います。それを探っていくことが、理科に限
> らない、日本の教育問題の核心に迫ることにな
> るのだろうし、ひいては、若い人たちに知的好
> 奇心を持たせることにつながるのであろうと考
> えます。

かなり困難な作業でしょうが、それが出来れば 素晴らしいと思います。
> では、私に「目の輝きを」を示したトルコとス
> ペインの少年・少女はどうでしょう。かれらは
> 何らかの「ハングリー精神」を持っていたのだ
> ろうかと考えると、そうではないように思いま
> す。

私は、知的飢餓感、知的(に強い)好奇心など は、(広義の)ハングリー精神と呼んでもいい のかなと思います。例えば、明治新政府が派遣 した遣欧使節団のメンバーの殆どは、強い好奇 心と危機感と使命感と……で、輝く目をしてい たに違いないと思います。いくつかの傍証もあ るようです。

また、明治の初めに日本の大学等に赴任した外 国人は、多数の輝く目に迎えられたと想像され ます。

さらに、彼らが、日本の国内で、(Ando S.さ んの経験のように)、輝く目に出会う経験をし たであろうことも容易に想像されます。

> TKHさんが体験されたことと私のそれで、少
> し違う点があります。私の体験は、私にそそ
> がれた視線であり、そこからの目の輝きです。

中略

> うに思います。そうでなければ、私が少年の
> 目の輝きに感動を覚えることもなかったでし
> ょう。

私は、不用意に設例をする悪癖があります。ご指摘 の通り、上野の浮浪児、パレスチナ難民の視線は私 だけに注がれたものではありません。私は援助物資 の配給をしていた訳ではありませんから。
高校のテニス部の例では、私など全く眼中になかっ たでしょう。神戸の例も、伝聞でしかありません。 秋葉原の少年達は、商店主との会話に割って入った 変な爺様に対する興味津々、かつ何か吸収しようと いう目でしたよ。
その意味で、私の挙げた例の殆どは、Ando S.さん の挙げられた例に対応する例としては、少々不適切 だったようです。

それでは、私は、(私に注がれた、たじろぐような) 「輝く目」に出会ったことが全くないかといえば、 そんなことはありません。
あまり、長くなってはいけないので、例を一つだけ 挙げます。
昭和36年、まだ日本人があまり外国に行っていな い頃米国に出張しました。ある米国人のお宅に招か れました。小学校低学年の坊やが出てきて、色々質 問しました。 日本には電車があるのか。日本人は何を食べている のか。日本にはワニはいるか。(彼の家には放し飼 いのワニがいました。)云々。 ご承知のように、小児の英語はとても分かりにく、 早口になられては困るので、「ねー、日本人はどん な言葉を話していると思う?」と切り出して、私に とって、英語が母国語ではないことを教えました。 彼は、びっくりして、ちょうどお茶をもってきた母 親に向かって、「ママ、日本ではね、日本語も話せ る人がいるんだよ。」 食事の時、彼に箸を渡し、日本人はこれで食事をす るのだよといったら、両手に1本づつ持って途方に 暮れていました。おかげで、私は、バーベキユーを 箸で食べる羽目に陥りました。 ふと気がつくと、彼が私を見つめる目が異様に輝い ています。私は、彼と目を直接合わせないようにし ました。目を合わせると、そらせたくなりますが、 目をそらすのはいやだったのです。 最後に、箸で仁丹をつまみ上げる実演をしたときは、 彼は、殆ど熱狂状態でした。

具体的には書きませんが、イタリアのガルダ湖畔で、 イラクのクルド族の居住地で、韓国で、そして日本 で、私は直接、こちらが目を逸らさざるを得ないよ うな輝く目にあっています。

> 次に、「若い人たちに知的好奇心を持たせるため
> に、何をなすべきか」ということですが、この問
> 題は、学校教育や家庭だけでなく、現実の日本社
> 会のありようとも深くかかわっているように思い
> ます。
私もそう思います。それが、この問題を「学校教育」 という枠を外して論じようと提案した理由です。

> 私は、自分の子どもたちや友人である他の子ども
> たちの言動から、いわゆる「落ちこぼれ」と称さ
> れる子どもたちは、「自分はまわりから認められ

中略

> 官になった子もいます。そして、中学のときは表
> 情の固かったその子のお母さんが、左官姿の彼と
> にこにこしながら歩いているのを見たことがあり
> ます。

  ここの部分には重要なテーマが多く含まれています。 でも、あまり議論の幅を広げすぎないため、とりあ えずは、何も申しあげません。

> 現代の子どもや若者の問題には、彼らに自己を実 > 現(発揮)する場が与えられていないということが > あると思います。

賛成です。ただしこの問題は日本特有ではなく、世 界の先進国には、程度の差こそあれ、どこにでもあ る現象であることを忘れない方がいいと思います。
> 学校や社会は本来そのような場でなければならな
> いのですが、現実は、そこに出て行くことは息が
> 詰まるのです。一度落ちこぼれたら、行き場がな

中略

> 同じ恰好をしています。仲間と違う恰好をするの
> を嫌います。仲間同士で群れ、仲間と同じ恰好を
> することで安心している風があります。
日本はこのレベルで留まっていますが、米国ではこ れに麻薬とピストルが加わります。そして、日本が 米国の後を追わないという保証などないのです。

> 日本人が自己を表現したり、主張したりするのが
> 下手だといわれるのは、日本文化によるものであ
> ると思いますが、彼らが自己を主張しようとしな
> いのは、日本文化ではなく、教育や現代の日本社
> 会のあり様にかかわりがあると考えます。
賛成です。次回から、どういう「ありよう」をどう 改めればよいかを議論しましょうか。
少し、ペースを落としてもいいかもしれませんね。

他の方が、ちょっと違った視点から参加して下さ ると、議論に厚みがでるのですが。

(^^)/~~~


[danwa:0898] Re: 目の輝き(社会のありよう)
Date: Sun, 1 Jun 2003 00:26:14 From:Ando S.
Ando S.です。こんばんは。

[danwa:0893]TKHさん:
> 次回から、どういう(社会の)「ありよう」をどう
>改めればよいかを議論しましょうか。
>少し、ペースを落としてもいいかもしれませんね。

話がどんどん難しくなっていきますね。「社会のありよう」ということにな ると、現実の政治的な事柄も無視できなくなるわけですが、それはこの科学 談話室の話題としては不向きだと思います。だから、談話室の話題としてど こから切り込んでいけばよいかということになり、余計に難しく感じていま す。

「社会のありよう」という視点から今の子どもを見ていて、私の子ども時代 と決定的に違っていると思うのは、今の子どもたちの日常の生活を通じての 社会とのかかわりの希薄さです。社会とのかかわりということには、Bi.Bi. さんが言われていた子ども同士で群れて遊ぶということも含まれます。近所 のおじさん、おばさんとのかかわりあいもあります。家族の問題では、核家 族化があります。極端に言ってしまえば、今の子どもが日常的にかかわりあ う大人といえば、父母、学校の先生、そして塾の先生です。祖父母さえ、か かわりを持つ機会が少なくなっています。私の家庭も、その典型のようなも のです。このような場合、子どもは、たとえば、家で親にしかられたりする と、もう行き場がなくなります。私の弟の子どもは、親と衝突すると、隣家 の祖父母のところへ行ったり、場合によっては、泊ったりしていました。私 は、田舎に帰省するたび、弟の子どもたちと自分の子どもたちの子供らしさ の違いを意識させられたものですが、その原因は祖父母の存在にあったので はと思っています。

今の子どもたちは、たとえば、毎日口にする食物はスーパーへ行けば簡単に 手に入るので、それがどのようにして作られるかということを知らないとい うことがよく指摘されます。この場合、「どのようにして作られるか」とい うことの中には、農家の人たちがどのように丹精こめているかということを 含みたいと、私は思います。むしろこの方が重要です。つまり、生きるため の人の活動、考えが見えないのです。このため、他人を思いやることも含め て、想像力は貧弱になると思います。

大好きなお菓子や飲み物を買おうとするとき、子供たちは、スーパーやコン ビニ、ファースト・フード店に行くでしょう。でも、そこの人たちの応対は ロボットのそれに等しいものです。客が大人であろうが子供であろうが、同 じ言葉、同じ調子で機械的にしゃべっています。そこには、人と人との会 話、対話といったものがありません。確かに生身の人間が応対しているので すが、子供たちはひょっとしたら、人間を感じていないのではないかと、以 前から危惧をしています。私の子どものころは、お店の人は同時に近所のお じさん、おばさんでもあったのです。

思いつく状況を、思いつくままに並べてきました。このような状況を一言で いえば、「人間関係の希薄化と生活感覚の喪失」です。だから、理科で学ぶ 事柄も、ほとんどが実感のないものとなってしまうのではないでしょうか。 実感のないものは、なかなか理解できないと思います。

それでも、理解する超優秀な子はいるようです。でも、そのような子どもの 「優秀さ」とは、何なんだろうという疑念を私は常にもっています。単にテ ストで100点を取っているというだけの優秀さではないのかということで す。もちろん、100点をとることはいいことです。それを、否定するつもり は、毛頭ありません。でも、それだけだとしたら、その優秀さからは、主体 性は生まれてこないように思うのですが。

今回は、一応、これまでとします。


[danwa:0899] Re: 目の輝き(社会のありよう)
Date: Sun, 1 Jun 2003 12:56:58 From:Ando S.
Ando S.です。

前回[danwa:0898]は、子どもと社会のかかわり方という視点から、「社会の ありよう」についての私の感想を述べました。

今回は、「大人社会のゆがみが子ども社会のゆがみを作っているのではない か」という視点から考えてみたいと思います。

子ども社会のゆがみというのは、学級崩壊や不登校(登校拒否)、非行と いったような現象です。また、若者の中には、引きこもりという問題があり ますが、これも、子ども時代からの問題をいまだに引きずっているという側 面があるような気がします。

本題に入る前に、ちょっと話題をもどします。
[danwa:0893]TKHさん:
>日本はこのレベルで留まっていますが、米国ではこ
>れに麻薬とピストルが加わります。そして、日本が
>米国の後を追わないという保証などないのです。

ご指摘のとおりだと思います。子どもの中学時の担任からもこのような意見 を聞いたことがあります。しかし、この御指摘は、子どもの荒れや、非行の 程度が、米国よりはまだ低い、まだまし、ということを意味されているので しょうか。私には、その当否はよくわかりませんが、視点を変えると、非行 の程度は日本もアメリカも同じかもしれないと思えてきたりもします。
というのは、麻薬や銃というのは、アメリカの大人社会がかかえている問題 だと思うからです。アメリカの大人社会のゆがみの実態というものは、私は よく知りません。しかし、アメリカの大人社会では、ゆがみの中で一部の人 に麻薬や銃という社会問題を引き起こさせているということは、日々の報道 を通じて実感させられます。そして、アメリカの子ども社会における麻薬や 銃というのは、この大人社会のゆがみのはけ口としての麻薬と銃が反映して いると考えられはしないかということです。そして、なぜ麻薬や銃なのかと いうことになると、アメリカ社会の歴史や文化といったことがかかわってく るのではないかと思います。
このように見てくると、子どものゆがみのはけ口としての非行や荒れの形態 が、必ずしもゆがみの程度を反映するものではないということになってきま す。しかし、私は今その当否を判断するだけの材料を持ちあわせていませ ん。TKHさんは、どうお考えでしょうか。

さて、本題です。
日本の大人社会と子ども社会の関係を考えるとき、そのキーワードとして 「競争」を考えてみたいと思います。
現在の学校教育を批判的に語るとき、「競争」とか「選別」といった言葉が 用いられますが、「競争」といったようなことが教育の中で本当にあるのだ ろうかと考えたとき、私はあるだろうと思います。
では、学校教育の中での「競争」は、どのような形をとって現れているので しょうか。それは、やはり、テストの結果としての点数の善し悪しでしょ う。それは、最終的には、よい大学、よい就職(会社)というところに収斂 していくのでしょう。受験でよい点数を取るために、塾がはやり、夜も昼 も、子どもたちは勉強漬けになります。また、塾での勉強の成果を学校の中 で日々競いあうことにもなります。その競争に入っていける子どもはまだい いですが、入っていけない子どもは何らかのはけ口を求める方向に動いてい かざるをえなくなります。
そして、この競争で大事なことは、まちがってはいけないんです。だから、 確信のないことは、めったなことでは口にはできません。まちがってしまえ ば、一気に下位に転落します。ですから、人と議論したり討論したりという 気風は、絶対に育ちません。

何でこんなことになるんでしょう。それは、大人社会の競争の反映でしょ う。学歴社会の反映でしょう。少しでもよい収入と少しでも高い社会的地位 を得ようとしたら、学歴は必須です。そう考えている大人が多いのは、確か でしょう。それを、批判的に見ている人ももちろんいますが、まだ、社会の 趨勢は学歴必須です。そして、親である大人たちは、子どもを叱咤激励し、 学校教育での競争に追いやります。そして、その大人自身が、仕事で疲れ果 て、さまざまなはけ口を求めたりしています。その中には、社会の批判を浴 びたりするような行為もあります。それを、子どもたちは、見つめていま す。

人の振り見て我が振り直せではないですが、大人は自分の子人の子を問わ ず、子どものゆがみを真摯に見つめ、大人社会のゆがみを改めていくことに 心を砕く必要があると思います。


[danwa:0900] Re: 目の輝き(社会のありよう)
Date: Sun, 1 Jun 2003 16:26:00 From:apj
>Ando S.です。こんばんは。
>大好きなお菓子や飲み物を買おうとするとき、子供たちは、スーパーやコン
>ビニ、ファースト・フード店に行くでしょう。でも、そこの人たちの応対は
>ロボットのそれに等しいものです。客が大人であろうが子供であろうが、同
>じ言葉、同じ調子で機械的にしゃべっています。そこには、人と人との会
>話、対話といったものがありません。確かに生身の人間が応対しているので
>すが、子供たちはひょっとしたら、人間を感じていないのではないかと、以
>前から危惧をしています。私の子どものころは、お店の人は同時に近所のお
>じさん、おばさんでもあったのです。

 これについてですが,ちょっと興味深い評論があります。
「社会が動物化している」
http://www.mainichi.co.jp/eye/interview/200112/27-1.html

 Ando.Sさんの感じておられる問題を読み解く手がかりになるかもしれません。

 私は30代なので,この流れの過渡期にあたると思うんですけど,どっちかというと ここでいう「動物化」された社会の方が快適です。

>思いつく状況を、思いつくままに並べてきました。このような状況を一言で
>いえば、「人間関係の希薄化と生活感覚の喪失」です。だから、理科で学ぶ
>事柄も、ほとんどが実感のないものとなってしまうのではないでしょうか。
>実感のないものは、なかなか理解できないと思います。

 本当に?
 どうもAndo.Sさんと私は所属している文化が違うような気がするんですが,  私の場合,人間関係は嫌いですけど顕微鏡で見る世界にはリアリティを感じる ことができて,それで理科が得意でした。小学校の頃の話です。

>それでも、理解する超優秀な子はいるようです。でも、そのような子どもの
>「優秀さ」とは、何なんだろうという疑念を私は常にもっています。単にテ
>ストで100点を取っているというだけの優秀さではないのかということで
>す。もちろん、100点をとることはいいことです。それを、否定するつもり
>は、毛頭ありません。でも、それだけだとしたら、その優秀さからは、主体
>性は生まれてこないように思うのですが。

 何に対してリアリティを感じられるかは人によって違います。 試験管の中で起きていることにリアリティを感じられるなら,理科は得意 になる。人間関係よりも,ものをさわって遊んでいるかどうかで決まる ように思います。ものをさわるというところが「生活感」ということ になるのかもしれません。

 中学校のときの体験ですが,電池の並列・直列つなぎというのがあって, 普段配線をして遊んでいると簡単なんですが,目に見えない電気にリアリティ を感じられない人にはピンとこないみたいでしたよ。

 ここでいうリアリティとは,頭の中に,自然(の一部について)ある概念 というかモデルというかができて,現実の自然を見ながら考えて比較したり 修正したりできるということです。また,この「自然」は野山を見るという 意味での自然じゃなくて,水が凍るといった実験室の中の「自然」も含みます。
 多分,年齢と知識に応じたモデルを頭の中で作り,それをいじくりまわし ながら理解が進むのだと思うんです。だから,このモデル構築自体が苦手 だと,理科にリアリティを感じるのは難しいかもしれません。超優秀な子と いうのは,この概念なりモデルなりの構築力にすぐれているということでは ないでしょうか。
 あと,普通に生活しているときにどういう情報を選んでいるかということ にもよると思います。例えば東京の真ん中で雪が降るのを見たとして,時間 によって結晶の形が違うってなことに気づく人とそうでない人がいるでしょう。 気づいた人は,次に学校で「雪とは・・・」と習ったときにすんなり頭に入る けど,気にしてなかった人だと,興味を持つ場合もあるしピンとこないで 「だから何?」で終わってしまうこともあるだでしょう。こういったことの 積み重ねが効いているように思います。でも,どういう情報を選んで「見て」 いるかというのは,個性の1つですよね。



[danwa:0901] Re: 目の輝き
Date: Sun, 1 Jun 2003 16:56:55 From: apj
Ando S.さんこんにちは。

コメントを書きながら,やっぱりAndo S.さんと私は所属している文化が 違うような気がして仕方がないです。この文化の違いについて,どなたか 解読できる方がいらっしゃいましたら,何かコメントをお願いします。


>現在の学校教育を批判的に語るとき、「競争」とか「選別」といった言葉が


>用いられますが、「競争」といったようなことが教育の中で本当にあるのだ


>ろうかと考えたとき、私はあるだろうと思います。


 この点は同意します。


>では、学校教育の中での「競争」は、どのような形をとって現れているので


>しょうか。それは、やはり、テストの結果としての点数の善し悪しでしょ


>う。それは、最終的には、よい大学、よい就職(会社)というところに収斂


>していくのでしょう。受験でよい点数を取るために、塾がはやり、夜も昼


>も、子どもたちは勉強漬けになります。また、塾での勉強の成果を学校の中


>で日々競いあうことにもなります。その競争に入っていける子どもはまだい


>いですが、入っていけない子どもは何らかのはけ口を求める方向に動いてい


>かざるをえなくなります。


 でも,これはちょっと違うと思うんです。ここに書かれたような生活を する子どもが一部にいることは確かです。が,競争の最終目標が「よい大学、 よい就職(会社)」であるなら,子どものころから勉強漬けになる必要は まったくないんです。
 大学入試で要求される知識と,高校・中学・小学(お受験?)で要求 される内容はそれぞれ違っています。学歴,じゃなくて正確には学校歴社会 の場合,高校・中学・小学がどこかというのは問題にされません。受験勉強 というのは訓練でけっこうどうにかなるものです。ただ,完全に学校の勉強 自体がわからない状態だときついと思います。そうすると,小学・中学では 学校の勉強がそこそこわかる程度についていくということだけやって, 受験向けトレーニングは高校に入ってからやればいい,高校が受験指導に 熱心でないなら,高校の3年間ないし,高校3年プラス浪人の予備校1年 の間だけ受験勉強に集中すれば,大学入試は何とかなります。高校も後半 になると,もう大人になってきているので,動機付けもはっきりしている 状態での2年程度の受験勉強の弊害はさほど無いでしょう。
 有名私立中高一貫を抜けて来た人と,そういう競争とは無縁で過ごして 来た人が結局同じ大学を受けて通るという例はけっこうあります。

 もし,不必要な競争が横行しているというのなら,それは,単に親がアホ で,受験というものに対する戦略眼がないということの反映でしょうね。 子どもが嘆くとしたら,そういう親を持った我が身の不運でしょうね。

 それにね,案外子どもの方が身の程を知ってる可能性もあります。 いい会社に入ったってリストラだ出向だと決して安泰じゃない。
 にもかかわらず,親が勉強しろと追い立てれば,理不尽さにストレス だってたまるでしょうよ。


>そして、この競争で大事なことは、まちがってはいけないんです。だから、


>確信のないことは、めったなことでは口にはできません。まちがってしまえ


>ば、一気に下位に転落します。ですから、人と議論したり討論したりという


>気風は、絶対に育ちません。


 議論に負けたことを,単に議論に負けたととらえられず,人格を否定 されたと思いこむ気風が議論を妨げているんじゃないでしょうか。
 あとは,意志決定プロセスが不透明でもかまわないとする風潮も 問題です。


>何でこんなことになるんでしょう。それは、大人社会の競争の反映でしょ


>う。学歴社会の反映でしょう。少しでもよい収入と少しでも高い社会的地位


>を得ようとしたら、学歴は必須です。そう考えている大人が多いのは、確か


>でしょう。それを、批判的に見ている人ももちろんいますが、まだ、社会の


>趨勢は学歴必須です。そして、親である大人たちは、子どもを叱咤激励し、


>学校教育での競争に追いやります。そして、その大人自身が、仕事で疲れ果


>て、さまざまなはけ口を求めたりしています。その中には、社会の批判を浴


>びたりするような行為もあります。それを、子どもたちは、見つめていま


>す。



 日本は学歴社会ではないです。もし,本当に学歴社会だったら,競争に 明確な目標が出来る分,ストレスは少なくて済むんじゃないでしょうか。

 私のいう学歴社会とは,
 学歴を得るのに投入したコスト < 社会に出てからのリターン
が成り立っているということです。これが広く成り立っているならそれは 学歴社会ですが,現実には,学歴を得るのに投入したコストの回収は 容易ではないです。特に修士以上に進学した場合。
 日本のは疑似学歴社会,もっと正確にいうなら学校歴社会で,しかも,
 学校歴を得るのに投入したコスト < 社会に出てからのリターン
すら怪しいというのが実感なんですが・・・・どうすれば数値的に示せる でしょうかねぇ・・・・。


[danwa:0907] Re: 目の輝き
Date: Sun, 8 Jun 2003 01:23:08 From: Ando S.
Ando S.です。apjさん、こんばんは。ちょっと長くなりますが、 [danwa:0900, 0901]に対する私のコメントです。

[danwa:0900]apjさん:


>コメントを書きながら,やっぱりAndo S.さんと私は所属している文化が違


>うような気がして仕方がないです。この文化の違いについて,どなたか解


>読できる方がいらっしゃいましたら,何かコメントをお願いします。


私自身がコメントしたいと思います。おっしゃるように、考え方の違いは、 顕著です。でも、私にとっては、apjさんのそれがまったく理解できないと いうものではありません。
私は、「視点の相異」と見ています。同じ問題を目の前にしても、私とapj さんでは、見えてくるもの、あるいは見つめるところが違うんです。私が重 要と見ているところが、apjさんにとっては何でもないことに写るのです。 それは、きっと、apjさんご自身が私が重要と見る問題点(環境)をうまく のりきってこられたからでしょう。それゆえに、apjさんの言われることの 中には、私にとっては、私の意見の補足になっていると感じられたりする場 合もあるのです。

たとえば、次のようにコメントしたことがあります。

[danwa:0888]Ando S.:


>うであるという確証を表明したものではありません。しかし、apjさんのこ


>のような感想を拝見すると、apjさん自身が私の危惧するような環境の中で


>教育を受けてこられたのではないか、と思われてきます。


視点の違いは、育った環境、経験、生き方、信条などから生じているもので しょう。しかし、それは、「文化」とかといったものではないと思います。
年齢の積み重ねの違いから来る経験の差というものはあるかもしれません が、世代の違いといったことでもないように思います。apjさんと同じよう な意見を言う人は、私と同じ世代にもいます。

話変わって、そうは言っても、次の部分はなかなか共感できるものです。

[danwa:0900]apjさん:


> 中学校のときの体験ですが,電池の並列・直列つなぎというのがあっ


>て,普段配線をして遊んでいると簡単なんですが,目に見えない電気にリ


>アリティを感じられない人にはピンとこないみたいでしたよ。


そうです。見えない電気はイメージしにくいです。
(私は、リアリティというより、イメージという言葉を使いたい。電気が苦 手な人もリアリティは感じていると思います。日々の生活で使っていますか ら。ビリビリきたら余計そうでしょう。ただ、電気がどういうものかそのイ メージがつかめないのだと思います。)
イメージできないから、わからないということになります。
また、電気は、理解する上で数学の助けが必要になる部分も大いにありま す。だから数学が苦手な人は、電気も苦手ではないかと想像します。さら に、シンクロスコープなどの測定器を使って視覚化することで、理解の助け にします。

[danwa:0900]apjさん(つづき):


> ここでいうリアリティとは,頭の中に,自然(の一部について)ある概


>念というかモデルというかができて,現実の自然を見ながら考えて比較し


>たり修正したりできるということです。また,この「自然」は野山を見る


>という意味での自然じゃなくて,水が凍るといった実験室の中の「自然」


>も含みます。


> 多分,年齢と知識に応じたモデルを頭の中で作り,それをいじくりまわ


>しながら理解が進むのだと思うんです。だから,このモデル構築自体が苦


>手だと,理科にリアリティを感じるのは難しいかもしれません。超優秀な


>子というのは,この概念なりモデルなりの構築力にすぐれているというこ


>とではないでしょうか。


これは、基本的には、同意できます。よくわかります。
しかし、リアリティ、あるいはイメージはいきなり生まれてくるものではな いと思います。リアリティを感じるには、その前提として、経験あるいは体 験の積み重ねがあると思うのです。しかも、場合によっては、本人はそれを 自覚していないでしょう。
モデルを頭の中で作ることで理解が進むということも、同感です。しかし、 それも、それまでの経験や体験をもとに行うことになるのだと思います。そ の前提をなしに、いきなりモデルは作れないでしょう、と私は思うのです が。(この点、Bi.Bi.さんのご意見[danwa:0902]が参考になります)
わたしは、そのような経験的、体験的な部分を「生活感覚」と表現してきま した。(厳密には、経験=生活感覚ではありませんが。経験というのはある 意味、自覚的ですが、生活感覚は、自覚的な経験も含めて本能的に(無自覚 に)身についているものの総体です。)
小学校に入学するころには、それぞれにそれなりのそういった積み重ねが あって、学習における理解を助けているのだと思うのです。

こんな話があります。犬のしつけ方についての本に書いてあったと記憶して いますが、具体的な書名は忘れました。
著者は、子犬は生まれて3ヶ月間は、その兄弟犬や親犬と一緒に過ごさせる のがよいと述べていました。そのことによって、犬本来の習性が形成される ということです。逆に、そういう経験をしなかった(そういう環境で育たな かった)犬は、成犬になっても人間とのコミュニケーションがうまくいかな かったりして、問題行動を起こしたりすることが多いというのです。

さらに、人間に育てられたゴリラやチンパンジーといった類人猿が、大人に なってから群れに入っていってもうまくコミュニケーションがとれなくて、 ひどい場合には虐待されたり、性行動すらとれないことがあるという話を聞 いたことがあります。

このようなことは、人間にもあてはまるのではないかと、私は想像していま す。つまり、昔から「三つ子(つまり3才児)の魂、百まで」というでしょ う。これは、人としての基本的な性格あるいは性根は、三才で基本的に確立 されるという、経験的言い伝えです。昔の人は、それが変わらずに一生続く と言ってきたのです。これが科学的に見て正しいのかどうか、それは私には わかりません。しかし、私は、そういうことはあるだろうと考えます。
人間の成長においては、節目があって、そのたびに遺伝子がトリガーされて 次の段階の成長に入っていくのだろうと思います。肉体的にそういうことが あることには、反論はないでしょう。加えて、私は、精神的な面においても それがあると信じています。一つの節目から次の節目までに、遺伝子が想定 しているまわりからの働きかけや経験がないと、遺伝子がトリガーされず、 何らかの傷害を残すことになりはしないかと思っています。
たとえば、私が子どもたちを保育所にあずけていたころ、保母さんから、 「TVに子守りをさせたら駄目」、「機械音(TV等から流れてくる一方的に しゃべる人間の声を含む)は、子どもの精神発達に障害になるおそれがある から」と、よく言われました。このことの意味は、私なりに要約すれば、次 のようなことです。
子ども、とくに1才未満の乳児は、親や兄弟などのまわりからの語りかけに 反応して情緒を育んでいくのですが、この語りかけは決して一方通行ではな いのです。乳児との双方向の対話なのです。乳児は、笑顔と体一杯の喜びで 対話するのです。そして、そこには、双方の一体感があるのです(子どもを 育てたことのある方なら、きっと同意していただけると思います)。しか し、TVの語る言葉は、対話ではありません。乳児が反応しようとしても、自 分を見つめてくれるやさしい顔がそこにはありません。だから、そういうこ とがつづくと、乳児が、人や言葉に反応しなくなることになるかもしれない ということです。
昔、自閉症の原因が、TVかもしれないと言われたことがあります。そのこと を、その保母さんに質問したら、TVは直接の原因ではない、直接の原因は脳 の病的な傷害であるという説明を受けました。しかし、TVに子守りをさせる ような状態は、その傷害の発現を助長するおそれがあるかもしれないと言わ れました。
(TVに子守りをさせるというのは、用事があったりしてかまっておれないと き、寂しい思いさせないためにという親心からTVをつけっぱなしにしておく ような状態のことです。)
私が、「人間関係の希薄化」を心配しているのも、一に、この視点からで す。

apjさんは、私の言った「人間関係の希薄化」を、

[danwa:0900]apjさん:


>私の場合,人間関係は嫌いですけど顕微鏡で見る世界にはリアリティを感


>じることができて,それで理科が得意でした。小学校の頃の話です。


と言って、「好き嫌い」の観点から論じられていますが、それが私にたいす る揶揄でないことを信じたいと思います。

最後に、学歴社会の問題ですが。(長くなって申し訳ありません)

[danwa:0901]apjさん:


> 学歴を得るのに投入したコスト < 社会に出てからのリターン


>が成り立っているということです。これが広く成り立っているならそれは


>学歴社会ですが,現実には,学歴を得るのに投入したコストの回収は


>容易ではないです。特に修士以上に進学した場合。


私は某地方の国立大学の出身ですが、入学金3万2千円、毎月の授業料が千円 でした。このほか、寮費が毎月4千余円でした。わたしは、日本育英会特別 奨学生で、毎月8千円の給付を受けました。そして、そのうち、返還金は3千 円でした。
次にリターンですが、私の初任給は、中小企業で、5万5千円でした。そし て、私が就職したこの会社では、私立大学の出身者のそれは、5万円でし た。つまり、5千円の格差がありました。
私が卒業する年(1973年)、国の政策が変わり、その後、国立大学の授業料 は飛躍的に上昇し、現在に至っています。
apjさんの「学歴社会」定義は、ちょっと変じゃないですか。この定義に従 えば、私は学歴社会の真っ只中にいたことになります。そして、その後、授 業料などの寝上がりで学歴社会でなくなったということになりますが、私の 実感にはそぐはないですね。確かに、能力主義が叫ばれ、終身雇用が崩れだ し、就職難がいわれ、社会の様相は変化しています。しかし、ちょっと変で す。


[danwa:0908] Re: 目の輝き
Date: Sun, 8 Jun 2003 20:20:33 From: apj
Ando S.様

 気になったところを先にフォローします。


>Ando S.です。apjさん、こんばんは。ちょっと長くなりますが、


>[danwa:0900]apjさん:


>>私の場合,人間関係は嫌いですけど顕微鏡で見る世界にはリアリティを感


>>じることができて,それで理科が得意でした。小学校の頃の話です。


>


>と言って、「好き嫌い」の観点から論じられていますが、それが私にたいす


>る揶揄でないことを信じたいと思います。


 揶揄のつもりはまったくありません。私は,Ando S.さんの書かれた内容 を,少し誤解したのかもしれません。人間関係が希薄であっても,自然を 見る目が濃厚(?)であるなら,理科好きにはなれるということを主張 したかったのです。というのは,私は,Ando S.さんの書かれた内容を, 「理科好きになるには生活感が必要,生活感の大部分は人間関係だ」と 読んでしまったからなのです。


>apjさんの「学歴社会」定義は、ちょっと変じゃないですか。この定義に従


>えば、私は学歴社会の真っ只中にいたことになります。そして、その後、授


>業料などの寝上がりで学歴社会でなくなったということになりますが、私の


>実感にはそぐはないですね。確かに、能力主義が叫ばれ、終身雇用が崩れだ


>し、就職難がいわれ、社会の様相は変化しています。しかし、ちょっと変で


>す。


 実感にそぐわない理由を教えて頂けたらと思います。
また,学歴社会を定義するとしたら,どんな内容だといいのでしょうか? 揶揄でも皮肉でもなく,Ando S.さんの時代は学歴社会だったんですねぇ と思えてくるんですが・・・・。

 私の実感では,生涯賃金を考えた場合,学歴を得るのに投じた分を回収する のが容易でないのです。学校にいる間は収入はそんなにないわけです。
早く社会にでて働いた人は,その分の収入がありますから,そこで差がひらき ます。さらに,学校に払う授業料がかかりますが,働いている人はそういう 支出はありません。
 すると,遅れて社会に出た場合には,少しくらい収入が上乗せされたところ で,その上乗せ分で差額を取り戻すのは容易ではないように見えます。
 さらに,その学歴を得るために,塾だ家庭教師だという支出をしていた 場合は,もっと総コストがかかるので,さらに取り戻すのは難しいと 思います。

 ちなみに,私の父親の世代は学歴社会だったと思います。大学を出れば 企業の幹部候補生になれたそうで,入社後のコースも違ったということ なので。


[danwa:0909] Re: 目の輝き
Date: Tue, 10 Jun 2003 23:54:27 From: Ando S.
Ando S.です。apjさん、レスありがとうございます。
今回もまた長くなりそうで、恐縮します。

apjさんの学歴社会についての定義について、違和感を感じるのは、次の式 のためです。

[danwa:0901]apjさん:


>学歴を得るのに投入したコスト < 社会に出てからのリターン


確かに、昨今は、大学に限らず、教育費全体は目に余る高騰ぶりです。だか ら、それに見合う収入が社会に出てからえられなければ学歴社会とはいえな いというapjさんのご意見は気持ちとしては理解できます。国公立大学の授 業料でさえ、私が学生だったころには考えられないほど高くなっています。 私のときは、1ヶ月千円。当時、運送会社にアルバイトに行って、1日8時間 で千三百円もらったのを覚えています。1日のアルバイトで1ヶ月の授業料が まかなえたのです。

ところで、この式ですが、いま仮に、国がその政策を変更して、国公私立を 問わず、すべての大学の授業料を無料にしたとします。そして、その他の社 会的条件、特に企業における労務政策には変化はないとします。apjさんの 式では、とたんに、学歴社会になってしまいますね(もちろん、授業料が無 料になるなんて、現実には夢物語です)。この点に、私は、まず第一に違和 感を覚えます。

また、この式では、学歴が浅いほど、学歴社会になってしまう可能性があり ます。学歴が浅ければ、学歴を得るのに投入したコストは少なく、働く年数 が長くなって生涯に得る収入は多くなりますからね。やっぱり、違和感がわ いてきます。
これに対して、例えば、中学卒の人は高い給料がもらえないから生涯収入は 高くならないという反論があったとしたら、それこそ学歴社会の結果ではな いのかという再反論が起きそうです。

さらには、同じ社会にいながら、古い世代にとっては学歴社会で、若い世代 では学歴社会ではない、というややこしいことにもなります。意識の問題と してみれば一理あるかもしれませんが、学歴社会かどうかは意識とは独立し た客観的問題ですからね。

「実感にそぐわない」という私の感想の根拠は、以上のようなところです。

つぎに、学歴社会について、私の考えです。(これがきょうの本題)

実は、私は、学歴を意識して生きることには嫌悪感があって、そのような道 を避けて生きてきました。最初に就職した会社では、国立大と私立大の5千 円の賃金格差の解消を訴え出たため、その後のいろいろな経過の中で最終的 には退職をする結果になってしまいました。そして、2度目に、就職したと ころは、入社後1年目に和議倒産し、会社再建に明け暮れて学歴云々どころ ではありませんでした。しかし、これは、学歴を意識しないことを善しとし ていた私にとっては、よき環境ではありました。その後もいろいろあって、 いまでもその延長のような生活(つまり学歴に見合わない低収入)です。だ いたい、ボーナスというものをもらった回数が、指折り数えられますから ね。
(余計な話をしました。)

私の実感する学歴社会とは、次のようなことです。

人の能力を学歴によって推し量る社会、学歴によって人を評価する社会、と いうのが第一義的です。場合によっては、人格すら推し量られているかもし れません。

そのことによって、apjさんのお父さんのように


>大学を出れば企業の幹部候補生になれたそうで,入社後のコースも違った


というように、出世競争においても有利な条件が保証されるのだと思いま す。

時代が古いほど、大学を卒業する人は少なかったでしょうから、このこと は、今よりも顕著で、誰の目にもわかりやすく現象していたと思います。
しかし、昨今は、大学卒業者は、増大しています。だから、大学を出たから といって、出世競争に勝てる保証はないと思います。いわば、定員の少ない ところに応募者が殺到しているようなものです。だから、今は、その本質が 見えにくいものになっているのだろうと思います。

さらに、近ごろは、大卒でもフリータになったりして、話がますます複雑に なっています。我々の世代では、定年まで働けると思っていたのが、リスト ラで御役ご免という事態もあります。これらの事態が、学歴社会の崩壊を示 唆するものかどうか、興味のある点ではあります。

でも、もう一つ、学歴社会と教育の関係で重要なのは、実態がどうであれ、 多くの人々、とくに親である人々が現実社会を学歴社会だと思っているだろ うということです。そして、教育コストを負担するのはあくまでも親である ということです。学校に行く本人ではありません。そして、学校を出た後、 そのリターンを得るのは、親ではありません。つまり、グローバルに見て、 コストを負担する人間とリターンを受ける人間は同一ではないのです。(だ から、apjさんの式が成り立たないともいえる)
世の親たちは、金にいとめをつけず、子どもたちを大学に行かせます。しか し、そのリターンが自分にくることはいささかも期待していません。何を望 んでいるかといえば、子どもの将来にわたる安泰です。その鍵が、学歴だと 考えているのです。子どもの将来の安泰に危惧がなくなれば、親の勤めが果 たせたと安心します。
しかし、親たちは、一方では、学歴社会の恩恵を受けるのが必ずしも容易で はないことも理解しています。だから、英会話ができると進学や就職に有利 だと聞けば、カナダでホームステイさせたりということになったりします。
多いですね、最近。私の周りでも、誰彼かの子どもが高校の時点で英語留学 しています。私たちの学生時代には考えられなかった現象です。

本当に日本の親たちは「教育熱心」です。というより、「学歴熱心、肩書き 熱心」と言った方が正しいかもしれません。しかし、その本質は、今見てき たとおりではないかと私は考えています。決して、一方的に批判されるべき ものでもないのです。しかし、考えなければならないことでもあります。

最後に、私は学歴がほとんど幅をきかさないような環境で仕事をしてきまし たから、私が学歴社会の内容を語るのは実は不適だと思います。ですから、 あくまでも、私の実感の範囲を出ない話として聞いていただけるようにお願 いします。


・・・さて、この先 話はどうなるのか?お楽しみに!・・・
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