開設:06/Dec./2001
更新:10/Mar./2007
中国星座への招待
-日本人と星座-



*** 目   次 ***
1.中国の星座と日本
2.中国星座の成立
3.中国星座の形
4.二十八宿
5.星座の分類
6.「星座」という言葉
7.日本の星座
8.中国星座と星占い
9.中国星座から西洋星座へ
     
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『大唐開元占経』にみられる中国星座リストのページへ
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1.中国の星座と日本

 1998年、奈良県のキトラ古墳の石室で天文図が発見され、多くの人たちが 注目しました。しかし、そこに描かれていた星座の形は、私たちが知ってい るものとは全く違っていて馴染みの無いものでした。というのも、描かれて いたのは中国流の星座だったからです。現代に生きる私たちにとって星座と いうと西洋星座の事を指しますが、古代から江戸時代末までの日本では、中 国流の星座を指していました。ですから、日本の星の文化を理解するには中 国星座を避けて通るわけにはいかないと言えましょう。



中国星座と現行星座の対照図 
拡大図(44KB)



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2.中国星座の成立

 中国の星座は、今から2,500年位くらい前に成立した星座体系で、 西洋などの影響を全く受けずに独自に発達しましたといわれています。
 星座は大きく分けて2つのグループがあります。第1のグループは 「二十八宿」と呼ばれる天の赤道に沿って作られた28の星座で、 天文学や星占いに重要な役割をもっているため歴史も古く、 紀元前8〜6世紀頃には原型が成立していたようです。
 第2のグループは、古代中国の社会身分制度がそのまま反映された250 あまりの星座たちで、北極星(当時はこぐま座のβ星)を天の皇帝とし、 そこから皇族、官僚、軍隊、庶民…といった星座が配列され、 天の北極から遠ざかるほど庶民的な星座になります。 唐の司馬貞は「星座に尊卑あり。人の官曹列位のごとし」と明快に説明しています。 こちらのグループは紀元前5〜4世紀頃に原形が成立したとされています。
 3世紀になり、三国・呉から晋の時代に太史令をつとめた陳卓(ちんたく)は、それまで知られていた 巫咸(ふかん)・甘徳(かんとく)・石申(せきしん)の3人が作った星座を整理し、
283星座、1464星の星図を作りました。 これにより中国星座の体系は完成し、それ以降は若干数の前後はあるものの、 基本的に最後までこのスタイルが守られます。
 そして明末頃になると、西洋からの宣教師たちの手により、 中国からは見えない南天の星座が追加されました。 18世紀中ごろに編纂された星表『欽定儀象考成』には、 南天の星座が23記載されており、 中にはバイエルの星座を直訳したものも含まれています。
283星座および南天の星座リストはこちら
星図(中国と日本の星座)はこちら


左図:北極星付近の星図。
右図:現在のうさぎ座周辺。中国では厠(トイレ)や屎(ウンチ)の星座になっている。

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3.中国星座の形

上述のように、中国の星座は社会身分制度をそのまま反映させるという目的の上で 作られたため、星と星をつないだ形と星座名称とがなかなか一致しません。 しかも老人(カノープス)や狼(シリウス)などのように1つの星からなる星座も たくさんあります。こういった特徴は、 西洋星座が星と星をつないだイメージをもとに作られているのと対照的と言えましょう。



図:昴宿(プレアデス)。形は重要でなかったためか、配列がアバウトな星図も多い。

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4.二十八宿

 西洋の黄道12星座にあたる中国の星座が「二十八宿」です。 これは天の赤道沿いに作られた28の星座で、 月が天球上を27.3日で一周するのに対応して1日1宿で1ヶ月28宿となります。
 二十八宿は太陰太陽暦や星占いはもちろん、 天球上での星の位置を表わすのにも使われました。 つまり各宿に「距星」と呼ばれる経度基準の星を設け、 距星とその宿の中にある星との赤経差によりその位置を表現したのです。  また、二十八宿は東西南北の4方位7星座ずつに分けられ、 それぞれに色や動物があてはめられました。

方位 二十八宿の名称 四神
角(かく)・亢(こう)・てい・房(ぼう)・心(しん)・尾(び)・箕(き) 青龍
斗(と)・牛(ぎゅう)・女(じょ)・虚(きょ)・危(き)・室(しつ)・壁(へき) 玄武
西 奎(けい)・婁(ろう)・胃(い)・昴(ぼう)・畢(ひつ)・觜(し)・参(しん) 白虎
井(せい)・鬼(き)・柳(りゅう)・星(せい)・張(ちょう)・翼(よく)・軫(しん) 朱雀
表:二十八宿と方位・四神の対応



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5.星座の分類

 中国の星座は、すべて大きなグループにわけられていて、必ずどこかに所 属しています。ただし、そのグループ分けは時代によって違っています。 ここでは、ごく簡単に紹介します。そのほか、
『大唐開元占経』にみられる分類はこちらをごらん下さい。

(1)『史記』天官書(漢代)の分類
中宮(または中官)  天の北極とその周辺の星座。
中宮以外の星座 東西南北の4宮に分類する。二十八宿の振り分けは上記第3章参照

(2)『晋書』天文志、『隋書』天文志での分類
中宮  天の北極とその周辺の星座。二十八宿とその従属星座を除く、天 の赤道以北の星座。
二十八舎  二十八宿およびその従属星座
外者  正式には「二十八舎之外者」という。中宮と二十八宿を除いた全ての星座。

(3)『歩天歌』(唐代)以降の分類
三垣  ・紫微垣:北極星を中心とした星座群。天帝の居所。
・太微垣:天子の政事をとる所。現在のしし、おとめ座周辺。
・天市垣:王都。天子の直轄地。現在のヘルクレス、へびつかい、かんむり座周辺。
二十八宿  二十八宿および三垣以外のすべての星座。

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6.「星座」という言葉

 私たちが何気なく使っている「星座」という言葉がいつ頃から使われるよ うになったのか、よくわかっていません。しかしの唐の司馬貞は、『史記』 天官書の註の中で「星座に尊卑あること、人の官曹列位のごとし。故に天官という」、 と「星座」という単語をはっきり書いていますので、 今から千年以上前の唐代には、既に星座という言葉が使われていたことになります。
 しかし、中国では「星座」という言葉は一般的ではなく、「星官」とか「天官」 という名称をよく使っていました。これは司馬貞の言葉をみてもわかるように、 中国の社会制度になぞらえて星座が作られているからです。
 また、二十八宿については「星宿」とか「二十八舎」という言い方を しています。



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7.日本の星座

 中国の星座が日本に入ってきたのは飛鳥時代頃のようで、 7〜8世紀の天文記事に若干の星座名が見られます。 また、天文図が描かれたキトラ古墳や高松塚古墳も 7世紀末から8世紀はじめ頃のものと考えられています。
 それ以来、日本人は中国の星座をそのまま使っていましたが、 江戸時代中期の1700年頃になると、幕府天文方であった
渋川春海とその子昔尹が、 中国星座の隙間を埋めるように新たに61星座、308星を追加しました。 渋川の星座は「大宰府」や「御息所」など日本の社会制度になぞらえた星座名も多く、 既存の中国星座と違和感が少ないように工夫されています。
 渋川春海と昔尹が刊行した星図『天文成象』は、その後の天文学書に掲載された星図のベースとなり、 新しく制定した星座もさまざまな書物を通じて広く紹介されました。しかし、18世紀末になると研究者たちは 中国で刊行された星表『欽定儀象考成』(1744年刊)を用いるようになります。 これは従来の中国星座に含まれていなかった星も含めて約3,000個の星のデータが記載されていたため、 日本の研究者も『欽定儀象考成』を基本資料にして研究を行なうようになり、 春海の星図や星座も徐々に用いられなくなりました。
渋川星座のリストはこちら
渋川星座を含む星図(中国と日本の星座)はこちら



図:渋川星座の一例。参宿付近に渋川星座「大宰府」、「小弐」(大宰府に勤める次官の名称)が追加されている。 この星図には見られないが、いっかくじゅう座領域に大宰府の長官「大弐」も作られている。

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8.中国星座と星占い

 洋の東西を問わず星座は占いにも使われてきました。中国でも同様で、星座 は星占いに欠かせない存在でした。
 中国では天が世界を支配していて、天がさまざまな天文現象を通じて地上に 対しメッセージを送っているとされました。一方で地上を支配する皇帝は、 天の皇帝(天帝)から地上を支配するように命令を受けた特別な人だと考えら れました。ですから地上の支配者である皇帝は、天のメッセージを的確に読 み取り、それをもとにより良い政治を行なわなければならず、このメッセー ジを読み取る作業である占星術は歴代中国王朝の重要な仕事と位置付けられ ました。そのため天文官僚はいつも空を監視していて、どんな些細な現象で も記録し、占いの結果を皇帝に報告したのです(天文密奏といいます)。占い 結果は即政治に反映されますから、天文官の仕事は重大でした。
 中国では星座一つ一つに意味がありますから、星占いの際には283星座すべて が使われました。それぞれの星座が、星座占い的にどのような意味を持つかは 各王朝ごとに編纂された正史の「天文志」に詳しく書かれています。中でも 『史記』天官書は基本文献として特に重要です。



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9.中国星座から西洋星座へ

 1868年の明治維新で幕府天文方は崩壊し、 それ以降西洋天文学の本格導入がすすめられたため、 中国星座は一切使われなくなってしまいました。
 本家中国でも、1911年の辛亥革命による封建制度の崩壊により、 日本と同じ道をたどりました。 この時から中国星座は歴史的文化の仲間入りをしたと言えましょう。


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